文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年4月2日】口を修めないため、引き起こした多くのトラブルは、同修の間にわだかまりを作ってしまい、全体の協調に影響して、大法のプロジェクトにマイナスの影響を与えます。
修煉者として、内に向けて探し、トラブルが心性の向上の階段だと分かっているのに、なぜこれらのわだかまりを作るのでしょうか? そして、一部の同修はこのことによって、小さいグループを形成して、さらに人を救い済度するプロジェクトに影響を与えて、旧勢力に迫害の口実を残しました。
個人の修煉としては、個人の素質だけの問題でなく、貴重な「徳」を口から失うことになります。
このようなことがあります。二人の同修は自転車を乗って走っているところ、ある若い女性が対面から歩いてきました。この女性は厚化粧をしていました。通り過ぎて、後ろの同修は前の同修に、「あなたは先ほど何をしたの?」と聞きました。前を走ってる同修は、「何もしていないよ、どうしたの」と言いました。後ろの同修は「先ほど、あなたの身体から綿花のようなものがその女の人の身体に飛びました」と言いました。前の同修はびっくりして、「私はあの女性を見て、パンダのようだと思いました」と言いました。その一念だけで、徳を他人に投げてしまいました。多くの同修は口を修めることを一つの表現だと見なして、「口を修めないと、徳を失う」ことを重視していません。
劉伯温は預言の中で、「世上有人行大善」(世の中に大善を行う人がいる)と言いました。中国本土の同修たちは、邪党の弾圧の中で、頑張って三つのことを行い、真相を伝えて、人を救い済度しています。大善と大徳は相互に補い合っています。では私たちは人を救い済度する過程で、大善を行って、大徳を積むことができるのではないでしょうか。皆さんはご存知のように、「功」は「徳」によって作り上げたものなので、徳がなければ、功はないのです。だから、徳は修煉者に対して、どれほど貴重なのでしょうか。口を修めないと、知らず知らずのうちに徳を口から失って、それは大変惜しいことではないでしょうか。実は口を修めるのは修煉の問題だけでなく、徳そのものと徳を失うことの問題でもあります。ですから、法を正す最後の段階で、私の認識としては、私たちは「口を修める」ことについて、真剣に受け止めなくてはなりません。
以下には、よく見られる「口を修めない」現象です。
1、一部の同修は話す時、習慣的に汚い言葉遣いをしています。このようなことは田舎の同修が多いです。
2、一部の同修は自分の観念に合わないことを見ると、「怒り」が大きくなり、すぐ罵る言葉を口から出しています。
3、一部の同修は他の人に偏見や観念を持って、同修の中でその人の悪口を話します。しかし、彼の言ったことはその人の真実の全体的な表現でなく、マイナスのことを一部の同修の中で伝え回っています。例えば、ある同修は他の同修に、「Aさんの恐怖心が重い」と言って、Aさんの同修の修煉環境を変えました。一部の同修は、自分の心で他人の腹を推し量り、同修の中で、誰々が何々になったなどなどを伝えて、無意識の内に、その同修の修煉環境を図らずもを変えてしまいました。
4、修煉者の観念の働きで、顕示心によって口を修めないことや、嫉妬心によって口を修めないこと、また恨む心によって口を修めないことなど、貴重な徳を口から失いました。
以上、私個人の認識ですが、不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
【編集者注:この文章は筆者個人の今の認識で、同修と交流して、「比して学び、比して修す」のためのものです】