【明慧日本2022年4月11日】(黒龍江省=明慧記者)黒龍江省樺川(かせん)県の法輪功学習者・左秀文さん(以下、学習者)は、2021年9月29日、警官により不当に連行された後、乳がんと診断されたため、入所の基準を満たさずに帰宅したが、2022年2月17日に無念な思いを晴らせないまま死亡した。享年71歳。
左さんは生前3回も警官に連行され、懲役3年6カ月の実刑判決を宣告されたことがある。
一、災難に見舞われ生きる力量がなくなった左さんは、大法を学び新たな人生へ
左さんは、2002年10月25日に中国の伝統気功である法輪功を学び始めた。そのきっかけは夫が病気になったことであるという。
2002年、左さんの夫は脳出血で入院し、高額な治療費で家の貯金はほぼ底をついた。そのため、夫は退院せざるを得なかった。
左さんは生前、以下のように語ったことがある。
夫が突然に脳出血を起こして病院に運ばれた。夫が倒れた後、私にとってまるで天が崩れたかのように生命の支えを失い、商売の経営もできなくなり、毎日の看病生活の中で、目が潰れるほど泣くばかりだった。2カ月間の入院で貯金をほとんど使い尽くしたが、夫は一向に良くならず昏睡状態のままだった。 仕方がなく退院し、それからあちこちへ治療に行ったが、それでも改善しなかった。
前途の希望が何も見えず、気持ちがとことんまで落ち込んだ時、隣の義姉が法輪功を紹介してくれた。夫は話すことが出来ないので、私が「法輪大法は素晴らしい」を傍で念じてあげたり『轉法輪』を読み聞かせたりした。夫に読み聞かせているうちに、私はだんだんと李洪志先生の説法の法理がわかってきた。
その時、様々な病気にも悩まされていた私は、知らず知らずのうちに病気が消えて、その喜びは言葉では言い表せないものだった。
当時、中共による法輪功への迫害は相当厳しい時期だったが、法輪功の恩恵を受けた私は、良い功法だとわかり、最後まで学び続けることを決意した。
二、迫害の中で信仰を貫き、冤罪が晴れずに死亡
1回目の連行後、15日間拘束された
左さんと学習者・王艶紅さんは2009年1月6日午前、横頭山鎮六間房村に行き、村民たちに卓上カレンダーを配布していたところ、村に来た鎮政府の関係者・陳慶田にカレンダー30数冊を奪われた。陳慶田が電話で通報したため、横頭山610弁公室の関係者および横頭山派出所の警官らが駆けつけてきた。左さんと王艶紅さんは連行され、樺川県拘置所で15日間拘束された。その後、派出所の警官らは度々左さんの自宅に行き嫌がらせを働いていた。
2回目に連行された後、懲役3年6カ月を宣告された
2010年12月13日午前、左さんは家に訪問して来た学習者・宋慧蘭さん、劉鳳平さん、王丹さんと一緒に法輪功の書籍を勉強していたところ、塀を乗り越えて押し入った樺川県公安局国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)と横頭山鎮派出所の警官らに連行され、家宅捜索を受けた。4人の学習者は樺川県公安局に連行され、不当な尋問を受け、一日中食事も与えられず、当日の夜に樺川県留置場に拘束された。
今回の連行で、左さんは樺川県裁判所に懲役3年6カ月の実刑判決を宣告され、2011年6月15日に黒龍江省女子刑務所に拘禁された。王丹さんは懲役3年の実刑判決を宣告され、2011年6月25日に黒龍江省女子刑務所に拘禁された。王丹さんの母親・劉鳳平さんは労働教養2年を科され、2011年3月29日に佳木斯労働教養所に拘禁され、洗脳による迫害を受けた。宋慧蘭さんは湯原県留置場に移送され、詳細不明な毒薬を注射されて身体に障害が残った。
刑務所での迫害で、左さんは心身ともに損傷を受け、精神状態も体調も極度に悪くなり、ずっと回復しなかった。
2013年、左さんは下された不当な刑期より早めに帰宅したが、家の至る所が荒らされ、すべての物が盗まれたため、七台河市の娘の家に行った。娘の家ではやはり不便なため、3日後、佳木斯市に行って部屋を借りた。左さんの妹も佳木斯市内に住んでおり、左さんはよく妹の家に泊まっていた。
3度目の連行後、解放されたが間もなく死亡
2021年9月29日午後2時頃、左さんは宋慧蘭さん、袁麗新さんと一緒に、佳木斯市の杏林湖公園で人々に迫害の実態を伝え、疫病から身を守る方法を教えていた時に、向陽公安局の警官らにより連行された。
左さんと袁麗新さんは15日間の行政拘留となり、翌日の午後5時半頃に湯原県拘置所に送られた。そこで、医師の診察を受け、乳癌と診断されたため、当日の夜解放された。
帰宅した後の左さんは、体調がますます悪化し、全身に力がなく、妹の家に数日間滞在しても元気になれなかった。2022年の初め、左さんは再び娘宅に行った。結局、2022年2月17日、左さんは迫害と苦しみの中で人生の旅を終えた。