文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年4月13日】法輪功が1999年7月20日から迫害されて以来、私のよく知っている多くの同修は邪悪の迫害の中で正々堂々と乗り越えてきましたが、「病業」の関を乗り越えられず亡くなりました。 特に最近では、多くの年配の同修が「病業」という問題に直面しています。
また、修煉が良くできていると周りから認められた一部の年配同修も「病業」に命を奪われました。法が正される肝心な時期に、同修たちがこの世から離れることは、真相を伝えることや衆生を救うことにとって極めて大きな損失になります。これは旧勢力が法を正すことに対する犯罪であり、大法弟子への妨害と迫害であり、私たちは決して認めてはならず、徹底的に否定しなければならないことです! しかし、どのように旧勢力の迫害を否定し、同修を手伝い「病業」の関から抜け出すかについては、私たちはある程度の経験がありますが、多くの教訓もありました。これは多くの同修、特に年配の同修が直面している生死の関の問題です。
一、同修を助ける時、同修の代わりに勝手にすべてを決めてはいけない
同修が病業に苦しんでいるのを見ると、誰もが焦り、熱心に発正念をしたり同修と交流したりして、一緒に法の中で向上し、同修が早く関を乗り越えるよう望んでいるはずです。しかし、同修を手伝う時、一刻も早く魔難から抜け出すために、往々にして自分の考えや理解、やり方で同修に要求し、同修の考えや修煉状態を考慮せず、時には同修が自ら乗り越えるべき関まで勝手に引き受けすべてを決めてしまうこともあります。
現地の元補導員は長い間不正出血していたため、病院で受診したところ、癌だと診断されました。それを知った同修たちは皆見舞いに行き、彼女の生活上の世話をしたり、家の掃除をしたりする同修もいれば、彼女の脈を診て漢方薬を処方する漢方医者の同修もいます。同修は、漢方薬を飲むことは薬を飲むことではないと認識しています。また、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の警官、彼女の勤務先の関係者も彼女を病院や療養所に送り治療させようとし、協調人も熱心に同修たちをチーム分けして朝昼晩に交代で彼女の家に行き、発正念をし、『轉法輪』を読み聞かせるなどをしました。師父の説法を多く聴いてほしいと思い、私は便利なノートパソコンを持っていきました。みんなは集団学法や、一緒に発正念することを通して、彼女はこの関を乗り越えると思っていました。しかし、思い通りに事が運ばず、すべて独りよがりの考えに過ぎませんでした。彼女は師父の説法ビデオを見ておらず、人数が多いと嫌な気持ちになり、同修と面と向かって学法や発正念をしたくないので、同修たちは別の部屋で発正念をして、法を読んでいました。このように、しばらく続けましたが、結局、その同修は亡くなりました。
師父は「それぞれ自分の修煉の道があります。大法弟子として、ほかの学習者の迫害を軽減してあげると考えるのは当然のことですが、具体的にどのように行うのかは、修煉の角度からその人の修煉状態を見るべきです。状態が良ければ助けやすいのですが、状態が悪ければ難しくなります。皆さんが力の及ぶ限り行うべきことを行うようにと言うしかありません」[1]と説かれています。
修煉はとても厳粛なことで、本人の心が動じなければ誰にもどうすることもできません。
師父は「他の修煉者を助けることは行うべきことで、誰かが取り残されないようにするのは間違っていません。しかし、彼らがどうしても表に出られなければ、あなたも力を尽くしました」[2]と説かれています。
同修を助ける場合、ベストを尽くして行うことは構いませんが、すべてを引き受けて勝手に決めてはいけないと、私は理解しています。
二、同修に頼る心を生じさせてはいけない
一部の同修は重い病業が現れると、自分一人では乗り越えることが難しく、同修に発正念をしてもらい、一緒に学法することを望んでいますが、時間が経つにつれ、往々にして自分を手伝う同修に対する依頼心が生じやすくなります。
何度も迫害を受けたある女性の同修は、刑務所の中で迫害されて深刻な病状が現れ、解放された時にはひどい腹水状態になっていました。帰宅した後、この女性の同修は自宅で学法グループを設立し、真相資料を預ける拠点にもなっていました。家に来る同修も増え、それぞれの次元が違うので、法に対する理解や認識も違っていました。この同修は「あなたはこの執着心を持っているかもしれません」と言い、あの同修は「あなたはこの心を放下できていません」と言い、また、「あなたはこのようにすべきです」、「あなたはそのようにすべきです」とアドバイスをする同修もいました。見舞いに来る同修の中には、この人は「これは利尿にいいです」と、あの人は「これは滋養品です」とあれこれを持ってきます。この女性同修も皆の意見をよく聞き、時間を大切にして法を学び、外に出て真相を伝え、病院にも行きませんが、心の中では「病業」のことに対してどうしても放下できません。この状況は、良くなったり悪くなったりして数年間続き、大きな変化はありませんでした。
私は刑務所から帰った後、彼女の状況を知ったので、見舞いに行きました。今までの病業の同修を手伝う経験から、私は自分の見解とアドバイスを話しました。私は彼女に、「一人で心を静めて法を学び、病業に対する執着を徹底的に放下し、根本から旧勢力による迫害を否定し、それから他人に頼る心を捨てなければなりません。この関を越えるためには、やはり自分に頼らなければならず、あらゆる雑念を取り除き、本当に自分の心性を向上させなければなりません」と話しました。しかし、人間は病気のときに親族や友人に看病してもらいたい、一人になると孤独感や不安になるという考えをすでに形成してしまい、これは修煉者として放下すべき一種の観念であります。根本的な執着が取り除かれていないため、何年も長引いて、結局、その女性同修は旧勢力に引っ張られてしまいました。
三、同修を助けるには、まず迫害を否定しなければならない
修煉の初めから、師父はすでに私たちの身体を清められ、病気の根源を取り除いて下さったことを、誰でも知っています。いわゆる病業は、すべて旧勢力による迫害であり、旧勢力の按排を否定し、内に向けて探し自分を修め、旧勢力にすきに乗じられないようにしなければなりません。しかし、実際に修煉の過程では、師と法を信じ、旧勢力を否定すると言いながら、内心では「病業」を病気として捉え、「病気の関」とみなしている同修がいます。
ある日の朝2時頃、年配の同修から「坐骨神経痛が再発し、痛みがひどくなって眠れないので、助けてほしい」との電話がありました。私は妻に「夜中には行けないので、寝られないなら発正念や学法をして下さい。どうしても我慢できないなら『忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる』[3]や、『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』と唱えるようにと伝えて」と言いました。
翌朝、妻と2人で交通機関を利用して見舞いに行きました。玄関を入ると、彼女がとても苦しそうな表情でソファーに横たわっていました。私は、「師父は体を清めて病気の根源を取り除いて下さったのに、どこに坐骨神経痛があるのですか? 今はもう健康になったではありませんか? 修煉は苦しみを嘗めないわけにはいかないでしょう」と言い、「坐骨神経痛」の話ではなく、どのように内に向けて探し、執着を取り除く体験について話しました。話している間、 彼女は苦しそうな顔で足を引きずりながらお茶を用意してくれました。妻は手伝おうとしましたが、私は目で妻を止めました。彼女はその後、私たちに昼食を食べるように言って引き留めました。彼女がキッチンに行こうとした時、妻は私にさせようとしました。私は「他人の家で、勝手にするわけにはいかないでしょう」と言うと、妻はすぐその意味がわかり、「彼の料理は毎日は飽きたから、今日はあなたの料理を食べてみたいのです」と言いました。同修はまた足を引きずりながらキッチンに入り、私と妻は彼女と交流しながら手伝いをしました。昼食後、私と妻が帰る時、同修は私たちを駅まで歩いて送り、何事もなかったかのように元通りに歩いていました。バスに乗ったとき、私は「もう大丈夫ですね、実際、自分はそれを気にしなければ、本当に何もないです」と言うと、同修も感慨深く「そうですね、『病気の関』だとみなさない時点で、すでに関を乗り越えました」と言いました。
四、本人の向上こそが鍵である
学法グループの50代の女性同修が、24日間生死の関を乗り越えた体験を話したとき、皆は大きく啓発されました。
2018年11月、女性同修は生理が止まらなくなり、大量に出血し、4日目からは、血の塊を伴う出血となりました。同修の妹(同修)も同じような症状で、結局関を突破できず亡くなりました。その同修も最初はとても不安でしたが、その後、生死を完全に捨て、すべて法の要求に従い、自分の主意識で関を乗り越えようと決心したそうです。そして、親戚にも同修にも言わず、ただ真剣に法を学び、できる限り心を込めて法を学ぼうとし、長時間の発正念をし続け、外に出て真相を伝え、いつも通りやるべきことをやっていました。内に向けて探してみると、長い間放下できていない怨恨心、負けず嫌いな心を見つけました。女性同修は幼い頃、母親に暴力を振るわれ、厳しくされたことを恨み、母親が自分と父親と妹の大法修煉を反対することを恨み、妹が亡くなった後、妹の夫は新しい恋人ができて偽善的になったので、妹のために不公平感が生じ、また、元夫(最近離婚)は男としての責任感がなく、人間としての気概と尊厳がなく、良心もない等などを恨んでいました。自分の執着心を見つけた彼女は、母親に謝り、自らの行動で欠点を正し、あらゆる面で母親の面倒を見るようになったのです。根本的な執着を見つけたので、生死を完全に放下し、すべてを師父に任せました。病業の仮相を気にしなくなった同修は、知らずしらずの間に24日目に出血が止まりました。彼女は「乗り越えたのは、病業の関ではなく、生死の関、心性の関です」と、深く認識するようになりました。
私は刑務所と留置場で「心調律障害を伴う高血圧」、「高血圧性クリーゼ」、「脳梗塞」などの仮相が現れました。血圧を測定すると上が200〜220mmHgで、下が110〜120mmHgのため、病院に運ばれ、緊急治療室で3日間緊急措置を受けたことがありますが、当時、私は病気として受け止めず、提供してくれた真相を伝える環境、チャンスだとしか考えていませんでした。3日間入院しても症状は改善されず、私は断固として退院を願い出ました。留置場に戻った後、すべての症状が消えました。私の変化を目にした医者と警官も、大法の不思議さに驚き、感服したそうです。
いわゆる病業はただの仮相に過ぎず、実は心性の関であり、心性が本当に向上してこそ、どんな関や困難も乗り越えられるということを学びました。もし、自分の心性を向上させず、ひたすら「病業」の関を乗り越えようとしても、実は旧勢力の迫害を認めることになり、迫害を認めている中で迫害に反対することになり、魔難を乗り越えるのは難しく、長引いてしまい、病院に行き「難病」と「診断」された場合、なおさら難しくなり、それを乗り越えられるのはごくわずかです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:「二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:「二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】