一思一念に注意し、着実に修める
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文/アメリカの大法弟子

 【明慧日本2022年4月23日】私は1999年に幸運にも修煉を始め、すでに修煉の道を20年以上歩んできました。私はいつも自分が古い学習者だと自覚し、大法の理解も最初の頃のように浅くないのですが、最近幾つかのことがあり、自分は新しい学習者と同じだと気づかされ、しっかりと修煉の道を歩んでいかなければならないと思いました。

 私は修煉上で多くの事に対して麻痺し、自分の執着を見つけにくくなっていることをはっきり感じました。修煉は意味がなく自分が向上することに全く関心のない状態に入ってしまったかのようでした。

 最近、身近の多くの同修と怨恨の心の問題について交流し、自分にも怨恨の心があるのではないかと探しました。この過程の中で、私は妻(同修)やプロジェクトの責任者に対し、怨恨の心があるのを見つけました。長期にこれらの事に対して不満を持っていたり、自分が不公平に扱われていると思ったり、この方面の問題はすでに非常に厳重だと思いました。自分に積み重ねられた怨恨の心を見つけ、非常に驚き、心の中で大きな疑問がありました。なぜ自分の怨恨の心がこんなにも深刻に積み重ねられたことに、全然気づかなかったのでしょうか? 私の修煉に何の問題が出たのでしょうか?

 私が気づいたのは、自分は修煉を怠けてしまい、修煉の最も基本において幾つか自己に対する要求を緩めていました。以下にこの過程の中でのわずかな体験を書き出し、不適当なところがあれば同修からの指摘をお願いします。

 一、明慧ネットの交流文章を堅持して見る

 私が修煉を始めて間もなく、中共の迫害が始まり、その時明慧ネットは私から言えば非常に重要で、私は重要な交流文章をパソコンにダウンロードあるいは印刷しました。特に毎回の師父の新経文をいつも印刷して、周囲の同修一人一人に送りました。

 海外に来てから、だんだんと明慧を見ることが少なくなり、多くの交流文章は中国で発生した事で、海外とは大きな関係がないように思えました。

 最近、私は毎日堅持して固定した時間に明慧ネットの交流文章を閲覧し、大法弟子全体の修煉環境に帰った感覚があり、明慧ネットの貴重さを体験しました。文章を読む過程で、自分の人を救う心を強め、心性の関に直面した時も自分の正念を更に強めました。

 例えば、ある女性の大法弟子の交流文章では、舅、姑に不公平に扱われた時、依然として厳しく自分に要求し、相手に善を持って接し、さらに長期に舅姑の世話をし、自分の行動を通して、家族は自然に心から大法が素晴らしいと分かるようになりました。私にはこのような経験はありませんが、家庭環境の修煉も大同小異のところがあり、家庭の義務と責任も相通じるところがあります。

 二、問題が発生したら自分自身の原因を探す

 師父は説かれました。「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。これは修煉上の最も有効な手段であり、大法弟子が修煉する際の特徴です。いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」[1]

 自分が歩んできた道で、深く体得しているのは「内に向けて探す」ことの重要さと法の力です。同時に、自分で気づいたのは修煉上の怠りの重要な原因は、問題に遭った時に、いつも内に向けて探すことが出来ず、さらに幾つかの修煉上の小さな関を大きな関とみなして、怨恨の心さえ出てきたりしました。

 私はフルタイムでプロジェクトの仕事に取り組んでおり、帰宅してからは子供の勉強を見たり、同僚と会議をしたり、時間が本当に足りないと感じ、食事をする時間さえ短くしようと考えました。このために、私は妻と普段食事をする時間は20分以内にしたいと相談しました。しかし実際はとて難しく、頻繫に食事が終わるまで30~40分で終わらない事もあり、更に長い時もあり、私は妻が常人の生活に執着して、生活を更に複雑にしていることを怨みました。加えて私は歯が良くないため、硬いものを少しでも食べると痛みが強く、作られたものが自分の思ったものでないと心の中で更に不満に思いました。

 長い間、自分には「理」があると思っていて、また妻にも常人生活の執着を放下するように注意していました。結果はお分かりでしょうが、問題は解決しないばかりか、反対にトラブルと鬱憤が積み重なりました。私が気づいたのは、問題に遭ったら自分に多く要求し、人に少なく要求すべきで、自分がその中で問題を解決しました。

 食事をするときの時間の長さは食事をしている人が決めることで、食事を作る人が決めるのではなく、自分がテーブルから離れられないのは、食物に対する執着があるからです。この道理を理解してから、食事をする時間を制御する問題はとてもうまく解決しました。その日の食事が美味しいか美味しくないかに関わらず、時間を見て、20分になったらテーブルを離れ、自分がやるべきことをしました。もしその日のおかずが硬かったら、柔らかいものを選んで食べ、どうしても無理なら少しの野菜スープを食べるくらいで終わらせます。人に要求せず、心の中にわだかまりが生じないようにしました。

 三、悩みの一思一念を掴む

 自分の悩みの一思一念を大きく見るのは、背後に大きな問題があるのかもしれません。

 私は最近100年の歴史のある古い家に引っ越しました。上の階には西洋人が住んでいて、ちょうど18歳になったばかりの女性でしたが、彼女の体形はとても大きく、一般の中国人でそのような人はとても少ないのです。彼女が上の階で歩くとき、床板が「ギシギシ」と音がして、本当に彼女が床板を壊してしまうのではないかと心配しました。

 入居してからしばらく、私はいつも悩み、彼女に早く引っ越してほしいと思いましたが、アメリカでは入居者を追い出すのは面倒な事で、このことを思うといつもとても苦悩しました。私は自分の執着を見つけました。家への執着があり、この事で苛立ち、忍耐がありませんでした。また煉功学法の時もこのことを思って、まるで心に石が載っているようでした。

 ある日、事務所である同修に挨拶すると、彼は私に不満があると感じました。その同修は若い人で、西洋社会で成長し、教育を受け、物事の処理は比較的温厚で、礼儀があり、彼の表情を見て気づきました。私は彼に厳しすぎました。私は上の階に住む借り主を思い出し、自分はその借り主に対して厳しすぎたと感じました。

 私は自分に問いました。私はなぜ彼女にそんなに厳しくするのでしょうか? 私は以前彼女と知り合いではなく、彼女とは何のいざこざも無く、唯一彼女が太っていて床板を「ギシギシ」と踏んでいることを知っているだけです。

 このように探していくと、私は自分の観念を見つけました。彼女は太っているので、心の中で彼女を好きではありません(あるいは嫌っている)。その中で私は自分の二つの問題を見つけました。一つは「痩せているのが美しい」という観念で、私は自分の観念がどこから来たのかはっきり分からず、しかしこれは私に差別心を生じさせると分かり、自分の観念に符合しない人に対して善の心が欠けていました。二つ目は、人を外見で判断していました。

 この前後、ネットで神韻作品の「換顔水」の動画が放映されたのを見て、自分に対してとても指向性を感じ、啓発を受けました。もっと探っていくと、この観念の背後にはまた色心の問題があることに気づきました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/3/30/440646.html)
 
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