同修をいつも褒めるべきではない
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2022年4月25日】内に向けて探すことと、同修と交流することによって、私は同修のことをいつも褒めることは、自分自身そして同修にも良くない影響をもたらすことがあると気づきました。

 あなたには、同修を褒めようと考えたら、すでに称賛する気持ち、羨ましく思う気持ち、人に劣っているなどの人心を持っているのです。これらの人心を持って同修を褒めると、相手の同修の空間場に良くない物質をもたらします。それによって、同修の顕示心、歓喜心、人より良くできていると思う心などの人心を助長してしまい、同修が人より良くできていると自己満足に陥ることになります。

 同修を褒める時によく、「あなたは内に向けて探すことが良くできていますね。あなたの悟性は良いですね。あなたは法理をよく理解していて、よくできていますね」などと言います。同修が能力ある、よく修めていると言って、同修を高い所に位置づけてしまいます。1人、2人と多くの同修がこのように言うようになれば、必ずその同修に厚い黒い物質を覆い被せてしまいます。これらの物質は同修に受きでない魔難をもたらしてしまいます。果たして、これは良いことでしょうか? 悪いことではないでしょうか?

 同修がどんなに優秀でも、智慧があっても、大法の中で修めたものであって、師父から衆生済度のために与えられたものです。もし、ある同修の一部の強みを大げさに強調してしまうと、必ずその人の真似をするようになります。法ではなく、人の真似をしてしまうと、大問題になってしまうのではないでしょうか? その心性はすでに常人のレベルに落ちてしまったのです。

 人を褒めることは、自分にも魔難をもたらします。毎日学法しても、法ではなく人に解決方法を求めてしまう可能性があります。そうしてしまえば、低い次元の生命は、あなたの漏れのある所に便乗し、あなたにトラブル、または病業などをもたらして迫害します。このような魔難は、なぜ生じたのかを知らないことが多いので、まさか同修を褒めることによってもたらされた漏れだとは気づかないでしょう。

 私が理解したことを共有します。師父が何を大法弟子に按配された道は皆違います。修煉の道は、それぞれの弟子の特徴、能力、立てた誓いによって按配され、弟子が何をやるのか、どのような作用をもたらすのかが決まります。ですから、どの同修が良くできているかは、いずれも師父の按配と加持のもとでできた事です。師父と大法を離れてしまい、同修個人の能力を強調しすぎると、無意識のうちに同修を高い位置に位置づけさせてしまい、師父と大法を低く位置づけ、それは師と法に対する敬意が足りないとも言えます。

 師父は、このように言われました。「以前、『煉功点のこの人の行いが本当に素晴らしいので、彼のように行いましょう』と言っている人がいました。皆さんに教えますが、くれぐれもこのようにしてもならず、考えてもいけません。修煉の人は誰それを手本にしてはならず、法を師とすべきです!(拍手) 皆さんが一旦このように行い、考えてしまう時、二つの問題が現れます。一つは、その学習者を死滅への道に追いやってしまい、旧勢力は彼に問題を生じさせ、ひいては死なせてしまい、これによってほかの学習者に試練を与えようとしています。『あなたたちは彼ばかり見ていて、こういう情況になったら、まだ大法を学ぶのか、修煉を続けるのか』と旧勢力が思うのです。こういうとき、『彼もだめになったら、私などは大丈夫でしょうか』と思って、すぐ動揺してしまいました。これでは、旧勢力に隙に乗じられてしまったのではありませんか? 師父である私さえ何も言うことはありません! 『見て御覧なさい、この試練の結果はどうでしょう。私たちは正しかったでしょう』と旧勢力は言うのです。ですから、正念が強くなければ、常人の心が動かされてしまいます。くれぐれも気をつけてください。法を師とすべきです。誰それの修煉を見て、その人を手本にしてしまい、法を勉強しないということをしてはいけません」[1]

 次に、具体例を挙げます。

 私の地域のある協調人は最近、病業の状態になりました。彼女本人は、内に向けて探していますが、一向に良くならず、かえって呼吸困難になり、話すことすら難しくなりました。呼吸困難のため、横になれず、良く眠れません。毎日元気がありません。この事について、彼女と学法を強化し、交流する同修もいますが、それでも状況は良くなりません。

 協調人は関をずっと突破できないので、ある同修は「私達も自分の内を見て、探してみて、ここ数年間、協調人に対して何か執着心を持っていないのか、交流してみましょう」と提案しました。

 同修Aさんは「私はいつも協調人に頼ってしまいます。家でどんな事が起きても、いつもお願いをしてしまい、いつも助けてもらっています。主人が私が大法を学ぶことを反対するので、ケンカになるたび、私は協調人の家に行きます。そのため、私は自ら法に基づいて悟らず、いつも協調人にどうすれば良いかを尋ねてきました。協調人の言うことはいつも正しいと信じてきました」と言いました。

 同修Bさんは、「私も協調人と何度も法を実証するププロジェクトを一緒にやりました。地元の同修が拉致・迫害された時、協調人はいつも率先して拉致された同修の救出活動を始め、弁護士を雇い、同修の家族と話し、政府に釈放するよう要求します。また、ある同修の退職金が理由もなく支給されなかった時、協調人はそれを助けました。大きい事でも小さい事でも、いつも協調人が自ら率先してやっていました。協調人の能力は高く、私はいつも羨ましく思っていました」と言いました。

 同修Cさんは、「私は協調人と一緒に活動することはあまり多くないですが、彼女を褒め称える話をよく聞きます。どんな法を実証するプロジェクトであっても、協調人がやるべきだと言えば、やるべきだと思っています。ある同修が私に『彼女は協調人とはまるで家族のように、お互いの面倒を見て、数日協調人の顔を見ないと落ち着かなくなるように感じます。それから、これは人間の情だと気づき、会う回数を減らしました。それでも私達はお互いを思っています」と言うのを聞いたことがあります。また、若い同修は『協調人のおばさんは能力があるので、何をやってもできる』と言いました」と話しました。

 同修Dさんは、「私は協調人と同じ学法グループです。彼女への情が強いです。彼女の今の様子を見て悲しくなりました。私の彼女への情、そして彼女を褒める人心が、彼女をこのようにしました。

 同修Eさんは、「長年、協調人といつも一緒に学法し、衆生済度してきました。何事も彼女に聞いてアドバイスしてもらうようにしてきました。他の地区の学習者に、協調人を話をする時、いつも誇らしく感じていました」と言いました。

 また、その場にいた多くの同修も、それぞれ協調人への情、および協調人を褒め称えるいろいろな執着心について話しました。

 このような全体の交流を通じて、内に向けて探すことで、皆さんは修煉の厳粛さに気づき、同修の間の情と、同修を褒める心は必ず放下しなければいけないと気づきました。特に、普段から協調人とよくプロジェクトをやっている人は、より厳格に自分を修め、人間の情に関わるようなことにならないように、気をつけるべきだと分かりました。同修の間の情が強くなれば、必ず修煉のトラブルと魔難をもたらします。

 最後に同修の皆さんは、「修煉に手本はなく、法をもって師とすべきです」と話しました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/21/437043.html)
 
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