法を師として修煉に励む
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年5月6日】私は、以前からよく見られるある問題について気づいていました。自戒(じかい:自分で自分をいましめること)を込めて、また同修への注意喚起のために、私見を述べたいと考えていましたが、考察が未熟なため、なかなか書き始められませんでした。 法の勉強を重ねるうちに、この問題への認識がだんだん深まってきたので、ここで述べたいと思います。私の悟った次元には限界があるので、もし間違っているところがあれば、同修のみなさんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 長い間、多くの同修たちは家族の学業や仕事、子供の出産の問題について気を取られ過ぎていると思います。これは明らかに取り除くべき執着です。しかし多くの同修はこの執着を取り除かないばかりか、子供の学業が成就し、親族のビジネスが成功し、子供が無事に出産できるようにと師父にお願いしています。これは本当に間違っていることです。師は法を正すためにこられたのであって、大法弟子を救い済度し、法を正す時期には常人の問題には触れられません。「法正人間(法が人間界を正す)」の時になって常人の問題に目を向けられるのです。私たち大法弟子は、常人社会で一般人の生活を送りながら修煉していますが、心念は常人の中にあってはいけません。

 私たちは常に師父の教えを忘れてはいけません。「真相を伝え、衆生を救い、これはすなわちあなたが行うべきことです。これ以外に、あなたが行うべきことはなく、この世界であなたが行うべきことはありません」 [1]

 親として子供の勉強を気にかけるのは当然のことですが、やりすぎるのは執着であり、大法よりも重きを置くのはさらに正しくありません。そんなに気にするのは、子供にずる賢く生きる生き方を教えることになるのではないでしょうか? 修煉の角度からするとこれは間違ったことです。家族にもっと稼いでほしい、自分ももっと稼いでお金を貯めて不安を解消したい、という同修もいます。

 子供の出産についてもさらに問題は深刻で、子供が結婚して数年過ぎても子供を産まないとそれに執着して、師父に子供を授けてくれと懇願しているようです。これは修煉者がやるべきことでしょうか? この点については師父は昔から説法で教えてくださっています。私が悟ったのは、佛様は修煉者の向上に関心を持っており、常人の家族がどのようになるかについては干渉しません。師父に家族を守ってくださいとお願いするとき、師父はあなたのことをどう思われるのでしょうか? 子供が子供を産んでほしいと願うのは、どういう目的なのでしょうか?  これは、あなたの修煉の向上を促進するものでしょうか? あなたの子供が子供を産まないとあなたの修煉に影響を与えるのでしょうか? これらのことは、私たちが向き合い、取り除かなければいけない執着ではないでしょうか?  私たちは本当に法を正しく理解しているのでしょうか?

 師父は『轉法輪』の中で「自然に任せ、個人の利益を重く見ないように」と、 [2]何度も教えてくださっています。 求めること自体は良くないもので、ある感情に対する執着です。 私がこう言うのはある現象に対する話であって、誰かを指す話しではありません。これは一般的に存在する問題であることに気づき、法の中で正しく悟り、向上するためにこの問題を持ち出しているのです。最初は私自身もよくできていませんでしたが、法を勉強する中でだんだんわかったのは「修煉と関係のないことを師父にお願いするのは法に反する」ということです。

 人間界にあるものについては、修煉者はそれが何であっても冷めた見方をし、重くみてはいけません。私たち大法弟子は、常人社会で修煉していますが、私たちの境界は常人の中にはありません。私たちは世間の次元を超えて問題を見るべきです。人にはそれぞれの運命があり、あるべきものはあるべきだし、あってはならないものは求めても得られないので、すべてを自然に任せるべきです。絶対に常人と同じように物事を行ってはいけません。私たちは常人の中に身を置いていますが、心は仏門にあり、表面的には私たちは常人のグループにいますが、実際は常人より高い次元にいるのです。

 私たちは、法の勉強から私たちがどこから来たのか、私たちの境界は人よりも高いことを知りました。人間界は師父が宇宙の法を正すために必要であり、大法弟子がここで修煉して昇華するために必要なのです。 私たちの周りにあるすべての現象は私たちの修煉を助けるためのものであり、最終的には私たちは不動心に到達しなければならないのです。

 師父は、大法弟子に新たな修煉の道を按配されましたが、常人はまだ常人の道を歩んでいます。これについて同修の皆さんは、はっきりと認識しなければいけません。 常人が大法を支持したり、家族が大法を修煉することに反対しなかったり、または「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」と心から唱えると、無量の正義の神様と師父が助けてくださるので、福が訪れただけで、私たちが師父に求めて得たものではありません。師父にお願いしたので願いが叶ったと思うかもしれませんが、そうではありません。もともとそう按配されているのです。時期がくれば何かが現れるように按配されているのです。常人の一生はそうなっています。大法弟子が修煉の中で困難があった時、師父に助けを求めるのはよくあることです。私たちが修煉の中で様々な難関に遭遇した時、正念が強ければ難関を乗り越えられますが、そうでなければ師父にお願いすると、師父の加持や点化を得たり、あるいは直接師父に助けられ難関を乗り越えることができます。しかし師父が助けてくださるのは、私たちが修煉者であり、大法弟子であるからです。

 もう一つの問題は、大法の素晴らしさと実証するために、同修が「私が大法を修煉したおかげて子供が良くなった」と言うのです。私が現時点での認識からすると「大法の素晴らしさ」を実証するには、自分自身を良くすることであると考えます。大法を修煉することによって自分が変わったことや感じたこと、または同修がいかに受益したか、いかによくなったかを話せばいいのです。なぜなら私たちの修煉環境は複雑であり、全ての親族や友人が良い人であるとは限りません。その因縁関係は私たちにはわからないものです。ある同修は「私が大法を修煉したおかげて一番上の子の会社がうまくいっている」言いました。すると他の人が「あなたは大法を修煉していますが、二番目の子はまだ認知障害が治っていないのはなぜか?」と聞きました。また「大法を修煉すると家族が受益した」と言うと、他の人に「誰々が大法を修煉したが、息子が死んだ」、「誰々が大法を修煉したが、夫が死んだ」と言われました。また、大法を修煉する修煉者が死亡することも多くあります。私たちが修煉すると親族が受益することは確かです。しかし常人は表面に現れる現象しか見ておらず、背後の原因などは見ません。そのため、私たちは自分や同修が受益したことや、常人が大法を支持したため福を得たことなどについて話せばいいのです。同修の親族が遭遇する災難や不幸は彼らの人生の中でそう按配されたものであり、時が来ると必ず起きてしまうのです。

 私たちは師父について上の次元から下へと下り、千万年転々と転生してきました。師父の説法から私たちは人生の本当の意味や、私たちが何者であるか、そして私たちには神聖な使命があることを知りました。 私たちはかつてあった輝きを捨て、十悪毒世の中で師父が法を正し、衆生を救うのを助けているのです。常人社会の乱れた現象に迷ってはいけません。常人同様のことを行ってはいけません。師父が私たちを救う難度をこれ以上、上げてはいけません。私たちの一つの思いや考えは全て法の要求に合わせないといけません。法を師として修煉に励んではじめて、師父が法を正すことを助け、三つのことをよく行い、誓いを叶えることができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十三』「二〇一五年ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/4/20/441392.html)
 
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