文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年5月13日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修のみなさん、こんにちは!
私は農村の大法弟子で、周辺の村には同修がおらず、集団で学び、交流する環境がありませんでした。年間を通じて、1、2回他の地域の同修とたまに連絡をとる程度で、あとは一人で修煉していました。私が嬉しく感じたのは明慧ネットにアクセスできたことで、それだけで満足と充実感がありました。
2021年1月から8月までの間に、私が真相を伝えたことで71人が党、共青団、少年先鋒隊を脱退しました。精進している同修ならともかく、これは私にとってなかなか難しいことでした。以下で、この71人に真相を伝える過程の中でのわずかばかりの体験を師父にご報告申し上げるとともに、同修のみなさんと交流したいと思います。
昨年(訳注:2020年)末、明慧ネットで、三退した人数の分析について同修が語った交流文章を読んだことがありました。文章の中では、1日の三退の総数から、法が正され終えるまでに大法弟子がどれだけの人を救えるかが予測されており、読み終わった後、私は「進展はこんなに遅く、師父が法を正すのはいつ終わるのだろうか?」と焦りと不安を感じました。師父は巨大な犠牲を払って時間を延長してくださっており、弟子である私が、師父の視点からこの問題を見るにはどうしたらいいでしょうか?
同修の全体的な状態は私には分かりませんでしたが、私自身は修煉がうまくいっておらず、その境地は圓満成就の基準とは程遠いものでした。考えに考えて、ようやく「他の人を見てはいけない、他の人を見ると、私の心の中ではみんなはその同じ場所にとどまってしまう」ということに気がつきました。人を救うということはできることをやるだけでした。
私は口べたで、性格が朴とつで、家では妻から「熊の柄」(訳注:特別な技を身につけていないこと)だとよく批判され、仕事ではあまりしゃべらず、基本的に自分からコミュニケーションをとることもありませんでした。私は中途半端で対応が遅いので、真相を伝えて三退を勧めることは自分にとって難しいとわかっていました。しかし、これは言い訳にはなりませんでした。 師父は口べたな弟子が真相を伝えてはいけないとはおっしゃっておらず、私は自分の置かれた環境の中で、真相を伝えるという点については行うことができ、それがまさに最もよいことでした。私は話ができないので、とにかく勉強して、真相を伝える面でしっかり行っている同修の体験談を明慧ネットで多く見ることにしました。
真相を伝える過程で、多くの人心を突破しなければならなかったので、確かに多くを費やしました。例えば、妻に「恥ずかしいからやめてくれませんか? 家族に安穏な日々を過ごさせるためなのですか? 職を失うようなことを言うんだったら離婚しますよ!」としかられました。良好な関係を築いていた職場の同僚からも「上司たちはあなたが法輪功について伝えていることを知っています。だから、注意して、仕事を失わないようにしてください!」とアドバイスを受けました。知人にも「自分が救世主だとでも思っているのですか? あなたが誰を救えるのですか? 誰があなたを信じると思いますか?」と笑われました。
郷里ではすべての郷(訳注:行政単位の一つ)の組織のリーダーを招集して会議を開き、ある組織のリーダーはわざわざ「○○の組織(私たちの組織のこと)には法輪功を学んでいる者もいる……」と言いました。友人は私に「村中の人があなたのこと(大法を学んでいることを指す)を知っていますから注意してください! あまり出しゃばらないように、あなたは共産党を凌げるとでも言うのですか?」と言いました。
道の険しさは大きかったのですが、心の中では「遠く古い昔から今日まで、私は使命のある人間であり、ここで立ち止まるわけにはいかないので、このような表面的な障害に邪魔されることなく真相を伝えることを続けていくのだ」とはっきりわかっていました。
私は真相を伝えた後に三退した人たちを小さな手帳に記録し、1人三退するたびに記録しました。私は普段から単独で一人ずつに真相を伝えました。1人の人と向き合うと、相手に十分な話をすることができ、三退を勧める時の確実性が高くなりました。今年(訳注:2021年)4月までに、大法の真相を聞いて三退した人は30人を超え、8月にこれを書いた時点ではすでに71人が三退しました。数字が励みになり、喜びでいっぱいになり、数字の変化を見て、私の目標は上がり続けました。私は「同修の経験を活かした援助や師父のご加持の下で私はどんどん話せるようになった」と気づきました。
ある街の同修が私に「あなたたち農村の人は優しくて素朴だから、真相を伝えて三退させるのは簡単ですよ」と言いました。私は「いいえ、地面を掘るのとはわけが違います。 掘るのは確かにひと堀りですが、中共の法輪功に対する嘘偽りの宣伝には死角がなく、村の多くの人に法輪功のことを話しても、テレビを見るのと同じで、まったく真相を知らず、すべて中共に騙されているのです」と言いました。村で「法輪功」という言葉を口に出しても、それほど慎重でない人は何も言いませんでした。そしてその眼差しは何かが間違っており、より慎重な人ほど私を隅に追い詰め、私は朴とつで、話すのが苦手で、いつも他の人に意気消沈させられました。しかし私は落胆せず、自分が力不足だとは思っていませんでした。私は「佛は縁のある人を済度し、弟子に縁のある人を按排して私に救わせてくださるよう私は師父にご加持を求めよう」と思いました。そのおかげで、私は師父の保護とご加持により、救う人の数が少しずつ増えてきたのでした。
頑固な隣人が三退した
近所の人は大法にとても抵抗があったため、何度も真相を伝えたのですが毎回うまくいかず、時にはその隣人は何も言わず、時には私よりも理解しているかのように私をじっと見つめました。その隣人の背後から邪霊の要素を取り除くために、私は正念を発しました。もう一度真相を伝えてもやはり受け入れず、その隣人はでんでん太鼓のように頭を振って「また来たのか? 別のことを話してくれ……」と言い続けました。その隣人は受け入れず、そうかといって無理に受け入れさせることはできませんが、近所の人がいつも見ているので、その隣人は三退せず、私はいつも心配し「自分の隣人さえ救えないのに、他の誰を救えるというのか?」と自分を責めました。私の心は気まずさを感じ、苦悩しました。
ある日、法を学んでいると、ふとまた隣人のことが頭に浮かび「彼はなぜ三退しないのだろう? 私に何か問題があるのだろうか?」と思いました。このように考えて、私は突然「なんと、本当は私に問題があり、普段から彼に優しくしているのは目的があり、三退してほしいからで、三退すればまた名簿に一人増えるからではないだろうか? これが自分の成果だったのだ」と悟りました。この心は深く隠れており、常人と話していても潜在意識の中にはこの念があり、なんときに自己中心的なのでしょうか! これは人を救うことなのでしょうか? このような思いで人を救えるでしょうか? 旧勢力に妨害されないでしょうか? 言うまでもなく、隣人が「三退」しないのは、明らかに私が向上するのを待っているからでした。
師父は「皆があなたは私を救うべき、救うべきだと言っていますが、その表現形式は世間の論理や認識のようなものではなく、人に何かを頼むとき礼儀正しく、慎み深くなければならず、私を救ってくれるから、まず感謝して、便宜を図ってあげるという認識ではありません。それらから見れば、私を救ってくれるなら、まず私の次元に達し、この威徳を持ってはじめて、私を救うことができます。あなたにその威徳がなく、私ほど次元が高くなければ、どうやって私を救うのでしょうか? それでそれらはあなたに挫折を味わわせ、苦を嘗めさせ、あなたの執着を取り除いて、あなたの威徳を打ち立てて、あなたがある次元まで修煉してから、その生命を救うことができ、すべてこのように行なっています」[1]と説かれました。
この問題に気づいた後、私はすぐに心の底からその隣人に親切にし、自分の私心を取り除くために私はすぐに自分を正しました。その隣人は体が悪く、力仕事ができるほど元気ではないので、その隣人の家族が私に仕事を頼みに来た時は、私はその仕事を自分の仕事として扱い、しっかりと手伝いました。時々、その隣人の家の前を通りかかると、庭で仕事をしているのを見かけるので、近寄っていって手を貸しました。例えば、野菜を植えたり、農薬をまいたり、重いものを持ったり、泥や水は気にせず、仕事を終えて帰りました。時々、仕事が終わると中に入って水を飲もうかと誘われると、私は「いりません」と言いました。わざとらしいあいさつの言葉もないままに、その隣人との距離はどんどん縮まっていきました。
今年(訳注:2021年)の春、「薪をくべるのを手伝ってほしい」と言われ、私は自分の家の仕事を放り出して行きました。大変な作業でしたが、その隣人は病気のためあまりできないので、ほとんど私が自分で行いました。まずテーブルソー(訳注:テーブルに固定された回転刃で材料を切断する工具)に薪を運び、一山の薪を切り出して積み上げました。 2000~2500キロの薪を切り終えるのに丸一日かかり、その後、切った薪を積み上げるのを手伝いました。私が汗だくでおがくずまみれになっているのを見て、その隣人は「なんていい人だ」と感動しました。私はその機会に、大法とは何か、なぜ三退が必要なのか、三退が人々にとってどのような意味を持つのかを説明しました。私が話した時に思ったのは「三退するかしないかはあなたの自由です。私はあなたに大法の真相を理解させているのです」ということでした。
その時は驚いたことに、その隣人は反論せず、心を開いて「三退します!」と二つ返事で承知しました。私はその隣人の姿を見て、とても嬉しく思いましたが、同時に、その隣人を救うのは簡単なことではなかったとも感じました。
中共の共青団や少年先鋒隊に参加していたその隣人の妻は、夫が脱退したのを見て、妻も喜んで脱退しました。隣人は人前で私のことをよく「この古い仲間はさすがです!」と言いました。私は村の人々からよく褒めたたえられました。
その隣人の家族はみな三退しましたが、私がひとつだけ心掛けていたのは、その隣人の家族が困っている時はできる限り助け、その隣人と疎遠にならず、三退前と三退後で異なる待遇をすることはありませんでした。なぜ私はこのように言うのでしょうか? 以前、県政府所在地にいた時、ある常人が「法輪功の人たちは不思議なところがあり、脱党の話をする時は、とても親身になって熱く語ってくれるのです。三退を約束した後、再会すると態度が一変し、話したがらなくなります。この人たちがよくわかりません」と言っているのを聞いたことがあったからでした。私は「これは個別の現象だが、非常に悪い影響を与えている。これは、あなたを必要としている時は笑顔とよい言葉ばかりで、必要としていない時は氷のように冷たく、あるいは厳しくなるという党文化の現れだ」と考えました。大法弟子は善を修め、善は永遠に続くものであり、このような印象を人々に与えてはならず、変えなければなりませんでした! 私たちは簡単に脱党を勧めているのではなく、三退を勧めることは私たちの心性をも体現しており、それは修煉の次元の現れでもありました。
(続く)
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」