文/中国の大法弟子 若善
【明慧日本2022年6月15日】私は生まれた時、首にへその緒が何周もきつく巻き付いていて、窒息死寸前で医師に救われて一命を取り留めましたが、片側麻痺の障害が残りました。右手が使えず、左手もそれほど自由に動かず、歩くことも話すことも困難な私は、幸いにも知能は正常で大学を卒業するまで普通に勉強することができました。
二つのがんを患い、絶望の中で死を待つ
大学在学中、私は1年以上頭痛に悩まされていました。頭痛薬を毎日飲んでいくうちに頭痛はますますひどくなり、顔の半分に痺れが出て視力も著しく低下し、目の前にいる人の顔や黒板の文字さえも見えなくなりました。頭痛と耳鳴りのせいで聴力も落ちた私は、先生の話やクラスメートの会話が聞こえないときもありました。さらに悪いことに、瞬間的な意識喪失も経験しました。また、頭が割れるような痛みのせいで、自習中に勉強をやめて寮に帰って休むこともよくありました。
大学卒業間近の1997年5月末、私は同級生の寮にあった『生活と健康』という雑誌の記事から、鼻咽頭がん末期の症状が当時自分が経験していることとまったく同じだと知りました。部屋に戻った私は衝動に駆られて「お母さん、私は鼻咽頭がんに罹ったかもしれない!」と、早速母宛てに手紙を書きました。手紙を受け取った母は、雷に打たれたような気持ちで駆けつけてきて、急いで私を大病院に連れて行きました。
2回の脳CTスキャンの結果を見た専門医たちは「末期の悪性脳腫瘍」と診断し、がん細胞が頭蓋骨まで侵食していると言いました。当時、頭蓋内に広まった悪性神経膠腫は、すでに聴神経と視神経を圧迫していました。耳鼻咽喉科で2回の生検を受けた結果、私は鼻咽頭がん末期と診断され、医師からは余命3カ月と言われました。私の人生は23歳で終わるように思えました。
悪性脳腫瘍と診断された後、病院側は母に、私の脳腫瘍摘出手術に同意させようとしました。実は当時、頭蓋内に広まった悪性神経膠腫は、すでに外科手術では取り除けなくなっていて、それならば、わずかな時間しか残されていない私を利用して、脳腫瘍手術の医学実験例にしよう、というのが当時の病院の腫瘍医たちの考えであったかもしれません。手術前の数日間、執刀医が5、6人の若い医師(インターンかもしれない)を連れて、毎日病室にやってきて私の状態を観察していました。
まだ私が世を去るべき時期ではなかったのかもしれません。手術の前日、私は生理になりました。生理の時は手術ができません。母は私のCTフィルムを持って、耳鼻咽喉科の専門医を訪ねました。フィルムを見た専門医は私の脳手術に強く反対し、腫瘍医がどうして命をこれほど粗末に扱うのかと非難しました。こうして、私は手術台で死ぬかもしれない一難から逃れることができました。
その後、私は放射線治療を受け始めました。末期がん患者にとって、どんな治療も無駄であるかもしれず、せいぜい精神的な慰めにしかならないでしょう。治療期間中、私は鼻血が出るようになり、止まらなくなって、トイレにしゃがみ込んで出るがままにしたこともありました。また、私の顔の右側も腫れてきました。首の両側の皮膚は放射線照射によるダメージで爛れ始め、血だらけになっていました。おまけに口の中も化膿し始めて、食事は拷問に等しいほど苦痛でした。母が毎食無理に私に食べさせていなければ、私は餓死するところでした。
じきに娘を失うかもしれないという大きな悲しみに耐えつつ、娘に希望を与えようと笑顔を絶やさない母は、一番辛かったでしょう。実際、私は何でも知っています。鼻咽頭がんの診断結果は私がさきに読みました。50歳を過ぎた母は視力が悪く「がん」を意味する「Ca.」の略称の意味もよく分かりませんでした。
放射線治療から帰宅して間もなく、私の首に卵大のしこりができました。鏡でそれを見つけたとき、涙がこぼれました。鼻咽頭がんで亡くなった父のことを思うと、化学療法どころか、放射線治療も止めようと考えました。どちらの治療法も副作用が強く、死を加速させるだけなので、苦しい死に方はしたくないと思いました。
母の前では涙を見せまいと頑張っていましたが、放射線治療中のある日、耐え難い頭痛に襲われた私は泣いてしまいました。母は一生懸命に私を慰めながら、自分自身も涙を流しながら泣き出してしまいました。悲しむ母の姿を見て、私は泣くのをやめました。
首にしこりができてから、私の顔も次第に腫れて、本来の顔の倍近く大きくになっていて、目も隙間ほどしか開けられなくなりました。そんな私を見て、祖母は悲しんで涙を流しました。祖母の長男(私の父)が亡くなる前、このような姿をしていたからです。白髪の者が黒髪の者を送るシーンがまたも上演されようとしていました。母と祖母は、私が亡くなった後に何を私に着させようかと密かに話し合っていました。
大法を修煉し、死地に活路が開ける
母は長年来体調が悪くて、重度の冠状動脈性心臓病と徐脈(1分間の拍動が40回程度)に悩まされていて「救心」を常に携帯し、副鼻腔炎、大腸潰瘍、胆嚢炎、五十肩、貧血、頭痛、皮膚病、腰痛、坐骨神経痛など、さまざまな病気も持っていました。体を鍛えようとして、母はいろいろな気功や太極拳を実践してみましたが、一向に改善が見られませんでした。
私の放射線治療が始まって間もなく、母は偶然にも法輪功の修煉を始めました。日に日に母の体は変化していき、病気もいつの間にか全部治りました。意気消沈していた母は顔がつやつやになり、言動が機敏になりました。
娘にも法輪功を修煉してほしいと思い、母は私に『法輪功』を読ませました。母の変化を目にし心から嬉しく思った私は、なかなか体をリラックスさせることができないため、大法の修煉をしませんでした。実際、当時の私は本をよく読んでおらず、法輪功を普通の気功だと思い、機械的に放射線治療を受けながら死を待つばかりでした。
放射線治療が終わって間もなく、私は確実に死を間近に感じました。1997年後半、死を待つ絶望の中、母は『轉法輪』を見せてくれました。それは、人々にいかにして名利にとらわれず、善の心を養い、他人のために無私になるように導くという本でした。
その後、母はさらに、法輪功学習者が修煉によって心身ともに受益した体験談をまとめたものを2冊見せてくれました。母の変化と言えば、既にこの目で見てきました。体験集にあった受益者たちの変化を読んで、私はさらに深く震撼させられました。法輪功は、さまざまな末期疾患(肝臓がん、肺がん、胃がん、血液がん、エリテマトーデス、重症のうつ病、強直性脊椎炎など)に苦しむ人々に新たな命を与えただけではなく、人々の心をも急速に浄化できることに、私は感服せざるを得ませんでした。
何十年も悪い嗜好を持っていた人が簡単にタバコや酒、ギャンブルをやめ、麻薬中毒で骨しか残っていない人が麻薬をやめて健康を取り戻し、喧嘩や乱闘、盗み、詐欺をしていた人が相手を思いやる良い人になり、争いの多かった家庭が法輪大法の修煉によって和睦(わぼく:仲よくすること)になったなど、体験集を読み終えた私は心が動かされて、その瞬間、熱い流れが全身を貫通したのを感じました。
1998年2月のある日、私は母と一緒に早朝の煉功を始めて、毎日『轉法輪』を読み、心身ともに受益するようになりました。実は、初めて『轉法輪』を読んだ時、師父はすでに面倒を見て下さいました。首にあったしこりは本を読んでいた間に消えました。
数日の煉功をしてからのある夜、うとうとしていた中で、私はある大きな手が私の頭蓋内から何かを掴み出したような気がしました。その瞬間、私は師父が頭蓋腔をきれいにして下さり、私が生まれ変わったのだと分かりました。
修煉して1年ほど経ったとき、私は思いがけず良い仕事に就きました。短期間で私はあまり利かない左手でパソコンの操作を習得し、仕事の中で自由自在に使えるようになりました。
自らを修め、善良な人になる
師父は大法弟子たちに自分を厳しく律し、どこにいても良い人であるよう教えられています。社会人になってから、私は自分を障害者だとは思わず、毎日定時に出勤し、遅刻も早退もせず、私用で仕事を休むこともほとんどありませんでした。
ある雨の日、道が滑りやすくて、足が不自由な私は重々しく地面に転けてしまい、先に地面についた左腕が全身の重さを受けることになりました。倒れた瞬間に激痛が走りましたが「大丈夫だ! 大丈夫だ!」と私は心の中で思いました。その後、肘から前腕にかけて打撲で腫れてきて、力も入らず、何をするにも困難な状態になってしまいました。しかし、私は誰にも言わず、休暇も取らずして、通常通りに仕事をこなしました。師父は「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり」 [1]とおっしゃっています。怪我を気にせずにしているうち、前腕の腫れも痛みも間もなく収まりました。
他人のために思う私は、校長先生に敬服された
名利に淡泊でいるようにと、師父は説法の中で説かれているので、私は仕事においては苦労をいとわず、個人的な損得も考えたことがありませんでした。2007年末、教育当局が困窮している職員を統計し、労いや資金援助を行おうとした際、新任の校長先生は私を第一候補として認定しました。
書類に記入するようにと校長先生から声をかけられたとき、私は婉曲に断りました。「私には家庭による負担がないので、その機会と枠を私よりもっと助けを必要とする先生に提供して下さい」と、私は言いました。私が断るとは思っていなかった校長先生は驚くとともに、とても感心しました。昇進は、社内の誰もが常に大きな関心を寄せていることで、そのために皆は競い合い、ごまかし、あらゆる虚偽の資料を捏造したりして、心身ともに疲弊していました。私は「真・善・忍」を修めているので、大法と師父の要求に反して名利を追求してはいけません。
もう20年以上働いてきて、私は肩書きが変わったことがなく、正規採用されたばかりの先生の給料よりも低い初級職の給料をもらっています。しかし、私は上層部に文句を言ったことがなく、常に直向(ひたむき)に仕事に尽力しています。
2012年、校長先生は私の昇格の件で人事局に出向き、解決策を求めましたが、何の返答も得られませんでした。そこで、校長先生は電話で私に「教職」の資格を一つ取ってきてと念を押しました。ここでいう「取ってきて」は偽造を意味し、しかも後にまた校長先生にお願いしなければなりません。私は迷わず「やめておきましょう」と答えて、校長先生のご心配とご助力に感謝しました。校長先生はとても感動して、このようなショートメッセージを送ってきました。「うちの先生たちもあなたの半分ほどの責任感と仕事に注ぐ情熱と、そしてあなたほどの高い素質があれば、校長を務めるのも楽になりますね」。
(続く)