修煉随筆:「内に向けて探す」を口癖にしてはならない
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文/道明

 【明慧日本2022年7月3日】私が知っているある同修は、1999年以降迫害に遭い、その後修煉しなくなりましたが、数年後に同修たちの助けを得て、再び修煉に戻りました。彼女は私に、「私の問題はほかでもなく、法を多く、そしてしっかりと学んでこなかっただけなのです」と言いました。

 数年後、偶然にも彼女に会い、しばしの交流を通じて、私は彼女が明らかに法を十分に学んでいないと感じましたが、指摘しませんでした。しばらくして、彼女自身が「私はやはり学法が足りません」と言いました。彼女が自分の問題の所在を知っているようなので、きっと精進していくだろうと私は思いました。さらに数年後の再会の際、彼女が発した言葉はまたも、「私の問題はやはり学法が足りないのです」でした。後で気づいたのですが、この言葉は彼女の口癖に近いものになっていました。この言葉を言っておけば、うちに向けて探したと示しつつ、自分には法に符合しない言動があっても、この言葉を盾にすることができます。学法の足りなさは自分が精進していないことの表れであり、よくできていないことの言い訳にはなりません。

 多くの年配の同修は、交流し始めるや否やうちに向けて探し始め、あれこれといろんな人心を見つけ出してきます。一部のやり方が法に符合しない同修は、あなたが指摘する前に自ら進んで自己分析を行い、あなたが指摘しようとするものよりもっと多くの人心を見つけ出し、「十年、一日のごとし」、自分が良く修めていると思っています。しかし、それらの執着心も長い間経っているのに、そのまま存在し続けています。師父が私たちに内に向けて探すようにとおっしゃったのは、執着心を探し出してそこに置いておくのではなく、それを取り除き、滅するためにあります。多くの執着心を探し出したからと言って、よく修めているとは限りません。両者には必然的な関係がありません。また、それを口癖にしたり、自分が良く修めていることの表れとしたり、あるいは他人の説得に耳を貸さない盾にしてはなりません。

 内に向けて探す目的が純粋ではない

 私たちは往々にしてトラブルに遭い、対立から抜け出せなくなった時にやむを得ず内に向けて探しますが、そうすると、探す目的が不純になってしまいがちです。その探しは、目先の問題を解決するためであり、客観的に修煉の基点に立ち、自分の次元を高めることを目的とする真の内に向けて探すことではないからです。

 一部の年配の同修は、子供や孫世代に何かの悪いことが起きれば、すぐに自分自身の修煉状態を反省し始め、そうでなければ子供たちは困難な局面に遭うことがないと言います。その目的は結局のところ、子供たちを幸せにしたり、自分が健康であれば子供たちに迷惑をかけることがないことにあります。

 ほかにも、子供に全財産を散財されてしまったにも拘らず、節約して自分のわずかな年金からお金を捻出して子供の補填にしながら、「これは、子供が私の業を滅することを助けているのだ」と言う同修がいます。これは師父の説法なのか、それとも自分勝手の憶測なのかが分かりません。子供にちょっとした意外なことがあれば、必死になって内に向けて探し、積極的に真相を伝え、確かに着実に修煉しているようにはみえますが、最終目的は、自分の懸命な修煉によって子供たちにより良い生活をもたらすことなのです。一番取り除かなければならない人心は、触れられることなくそのまま残存しています。

 そしてもっともよく見られるのは、病業の関を長期に亘って乗り越えることができず、必死になって内に向けて探しますが、その結果、修煉が病気を無くすためのものとなってしまいました。基点が間違っていれば、真に内に向けて探すことになりますか?

 師父が説かれている「内に向けて探す」は法であり、修煉のためのものです。私たちは必ず正しい信念を持ち、正しく悟らなければなりません。そうすることができなければ、どうやって法を正す師に手伝うことができるでしょうか。

 漠然として内に向けて探す

 私が接してきた同修の中で、内に向けて探すものの、深く掘り下げていかない人がいます。何を見つけたのかと尋ねると、いつも「まあ、人心ですね」と答え、「さらに深く掘り下げてみたら」と言うと、「私心ですね」と返事してきます。さらに深く掘り下げてみてと勧めると、「どの執着心も人心ではないか!」と言いながらうるさがる様子を見せてきます。実は、このような漠然とした内に向けて探す行為は、一種の精神面の怠慢だと思います。どのような執着心によってトラブルが引き起こされたのかが分からなければ、どうやってそれを取り除くことができますか? こうして風雨に沿って流れていくやり方で修煉していけば、一つの次元を彷徨うことになり、事を成し遂げるのは難しいでしょう。

 忠告を聞き入れず過ちを取り繕うような人間だった私にとって、内に向けて探すことは非常に難しく、明らかに自分が間違っていても、詭弁を弄して決して謝ろうとしませんでした。法を学び、修煉し続けていくうち、私は次第に自分が守ろうとしているのは「私」であり、そして「私」と「死」は同音であることに気づき、この「私」を頑なに守り続けていけば、「死に至る一本道」に入るしかないと悟りました。大法の感化を受けて、私は次第に成熟してきました。内に向けて探す過程で、問題を見つけたらすぐに取り除き、決してその場凌ぎの対応をせず、今年、来年、そして再来年にまだこの人心を持つことを自分に許していません。どの執着心をきれいに取り除くことができたとは言い切れませんが、明らかに次元が向上した後、同じ執着心が現れても、私は異なる心境で対処することができます。繰り返しはよくありますが、私は落胆しないよう、経験と教訓を生かしつつ自分を励まします。執着心を取り除く過程は辛いものですが、私は通常大量に学法することを通じて乗り越えるようにしています。

 学法と心を修めることを強化していくしかありません。修煉は繰り返し鍛錬し、最後に純金を煉り出すことにほかなりません。

 少しの浅はかな見解に過ぎず、ご指摘を仰ぎます。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/6/16/444916.html)
 
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