【明慧日本2022年9月14日】清王朝の皇子の教育制度が定められたのは、康熙時代です。それによると、皇子は6歳から塾に通って教育を受け始めます。皇子たちは毎朝5時に起きて、午後6、7時まで勉強します。1年のうち、休みは元日とその前日の2日間のしかも半日だけです。暑くても寒くても、毎日塾に行かなければなりません。
皇子の塾は、暢春園の中にある「無逸書斎」というところです。名前からも分かるように、塾では安逸な生活はありません。康熙皇帝は「身を修めるには、平素から謹むことが大事。私は真夏の6月にも扇を使わず、帽子を脱ぐこともない。これは普段から自分に厳しく要求し、放縦しないからこそできるようになったのだ」と述べています。
「無逸書斎」の一日
康煕皇帝は皇子たちの学業にとても厳しく、よく勉強や武芸をチェックしました。史料には、康熙26年(1687年)6月10日、皇子たちが「無逸書斎」で勉強している状況を記しています。
早朝3~5時、ここで読書をし前日の授業を復習して、先生の到来を待つ。
5~7時、先生が来る。満州語の先生の名前はダハタといい、中国語の先生の名前は湯斌(とうひん)という。先生は皇子たちの宿題をチェックしてから新しい内容を教える。
7~9時、仕事を終えた康熙皇帝は塾に来て、皇子たちの文章の暗記をチェックする。今の国語の授業と同じで、まず暗記ができているかをチェックする。
9~11時、その時はもう真夏に入っており、正午近くの時間帯はとても暑い。授業中、皇子たちは扇子を持つことを許されず、上半身を真っ直ぐにして座らなければならない。書道の練習をして各文字を100回書く。
11~13時、昼食をとる。食後、自習する。
13~15時、皇子たちは「無逸書斎」の庭に出て体育の授業を受ける。弓、レスリング、武術などを習う。
15~17時、康熙皇帝は再び「無逸書斎」を訪ねて、皇子たちの暗記、文章に対する理解などをチェックする。
17~19時、皇子たちは「無逸書斎」の外で弓を射る。その結果を康煕皇帝がチェックする。各皇子の成績はそれぞれ違う。先生たちにも矢を射るように命じて、その後、皇帝は自ら射って、毎回、的に命中。
19時に一日の勉強が終わる。これが皇子たちの一日なのだ。
61年間怠らず、政務に勤める康熙皇帝
康熙皇帝は在位61年です。中国の歴史上、在位期間が最も長い皇帝です。61年間で国土を開拓し民に幸福をもたらし、「千載一遇の皇帝」と尊称されました。康熙皇帝以来、清の皇帝が毎日大臣らに会って政事を処理することは慣例になりました。
大臣から政事を聴取する時間は、春夏が午前6時、秋冬が午前7時と定められています。しかし年配の大臣にとって、早朝の会合に出席するために夜中に起きて宮中に駆けつけるのは、とても耐えられないことです。大臣らの嘆願に応じて、康煕皇帝は制度を緩和しました。しかし康熙皇帝自身は、「30年来、政事を聴取するのが慣習になっているので、しないと不安になる。3日か4日間あけて聴取すると、倦怠を起こす恐れがある」として、毎日のように政事聴取を続けていました。
緊急の上奏文があれば、康熙皇帝はいつも徹夜で確認し、指示を出しました。遅らせることはありませんでした。「皇帝が事を処理する時、少しでもうっかりすると、天下に迷惑をかけて後世に災いをもたらしかねない」と言っています。
康熙15年(1676年)の夏、黄河の堤防が壊れて水害が頻発し、康熙皇帝は何度も現場を視察し、状況把握に努めました。中国史上、水利に関心を寄せた皇帝は少なくありませんが、自ら何度も被災地を視察して解決策を提示する皇帝は多くありません。
日ごとに進歩
康熙皇帝は『易経』の言葉を引用して、「学業に精進し、少しでも怠けてはならない、日ごとに進歩するのは素晴らしいことで、非常に高貴な道徳ともいえる」と子孫を戒めています。
『康熙教子庭訓格言』には、「世の中は安逸を好み、苦労を好まない。しかし、根気よく働いてこそ、はじめて安逸というものを知ることができると私は思う。ひたすら安逸だけを求めると、安逸とは何かを感じることができず、苦労しなければならない時にきっと耐えられない。聖人は苦労を福と考え、安逸を禍と考えている」と書かれています。
康熙皇帝は、その生涯において即位から死去まで、病気や三大祝日(元日、冬至、誕生日)、重大事件のときを除いて、臣下の上奏を聞き政事の裁可をしない日はほとんどありませんでした。晩年、人生を振り返った時に「在任61年、小心翼々、一刻の怠惰もない」と感慨深げに言いました。
康熙皇帝の生涯を見れば、その言葉は適切であり虚言ではありません。一言一行で徳に則って身を修め、後世に手本を示した彼の人生は、中国伝統文化における貴重な無形資産ともいえます。