文/海外の大法弟子
【明慧日本2022年10月4日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私は明慧に参加して数年しか経っていませんが、師父の説法から自分の体験を皆さんと共有すべきだと悟りました。
明慧プロジェクトへの参加
あるとき、私は地元の青年同修キャンプに参加しました。そのとき、いくつかの大法のプロジェクトが紹介されて、そのうちの一つが明慧でした。私は明慧には興味がありましたが、自分の語学力に限界があると思い、躊躇しました。明慧に携わっているある同修が私ともう一人の若い同修に、「明慧に参加したいですか?」と尋ねたところ、私たちは2人とも 「はい、参加したいです」と答えました。すると、明慧の同修は若い同修に翻訳文章を送るだけで、私はそれ以来何も受け取っていませんでした。私は、自身の語学力が限られていて、まだ明慧に参加する資格がないのかもしれないと結論付けました。
時間が経つにつれて、私はそのことを忘れていました。ある日、ある若い海外の同修が、私たち青年同修グループと共有するために、英語で書かれている修煉体験文を送ってきました。その内容を知りたい私は、明慧チームの同修にこの文章が翻訳されたかどうかを尋ねました。彼女は答える代わりに、私を明慧翻訳チームに招待しました。誘われて嬉しかったのですが、私はやはり自分の語学力が気になって、そのとき、こう考えました。「修煉者として、人間の観念を放下すべきだ」。そこで、私は彼女の誘いに応じて、ついに地元の明慧チームの一員となりました。
2011年に法輪大法を修煉し始めた私は、明慧のウェブサイトを知ったとき、明慧に携わっている同修たちはきっと良い修煉者だと思っていました。当時の私は新しい修煉者であり、大法についてまだよく知っておらず、プロジェクトには参加できないと思っていて、しかし、心の奥底では、なぜか、いつか明慧チームに加わりたいという願望がありました。9年間修煉して、私はようやくチームに加わることができ、そしてその理由もわかりました。チームに加わって間もなく、地元の協調人に『明慧ネット十周年法会での説法』を読むことを提案され、そこで、私は以下の師父の説法を読みました。
「明慧ネットは大法弟子が運営するウェブサイトの中で一つの重要なウェブサイトだと言えます。開設初期の頃から、明慧ネットは大法弟子が修煉し交流を行なう窓口と、大法弟子の迫害状況をいち早く報道するウェブサイトだと位置づけましたので、明慧ネットの役割は一層重要なものとなり、邪悪の目の敵になりました。これによって、ほかのウェブサイトより、さらにその安全性が重視されています。邪悪に隙に乗じられてはいけません。なぜなら、明慧ネットは大法弟子の迫害状況をいち早く報道することができ、第三者経由の情報ではなく、直接情報を入手しています」[1]
翻訳者から編集者へ
2020年初めから、私は翻訳者として明慧に参加しました。明慧に参加してから私は多くの向上を得ることができ、自身をもっと厳しく律するようになりました。私は煉功場によく行き、他の修煉者と一緒に法を学び、4つの発正念もきちんと行ってきました。朝方に翻訳を終えることがしばしばですが、それでも私は3時40分に起きて近くの煉功場に行くことができました。師父が要求されている三つのことをきちんと行えた時、疲れを感じるどころか、ワクワクしながら日々を過ごすことができました。また、同年代の常人の若者が好む娯楽にも、私は興味や執着を感じなくなり、修煉の時間がとても貴重だと感じました。
一時、私は迫害文章の翻訳を任されて、悲しみと、中国にいる同修たちが経験している苦痛を深く感じ取りました。これをきっかけに、私は真相資料を配布し、いくつかのソーシャルメディアを通じてオンラインで大法の真相と迫害の事実を衆生に周知させることで、真相伝えに励むようになりました。
ある日、私は突然編集者になることを勧められ、文章の割り当てと、同修が翻訳した文章の校正と編集を依頼されました。以前、何人もの編集者がしばらく仕事をしてからやめたと聞いていましたが、私は何も考えずに提案に応じました。しかし、その後、「なぜ私なの?」と自問しました。私は明慧の一員になってまだ2年ほどしか経っておらず、私より経験が豊富でスキルも高い先輩がたくさんいて、そして自身の語学力にも自信が持てませんでした。「どうして私が編集者の一人になれるのか?」と困惑しました。その時、私は師父が『轉法輪』の中でおっしゃったことを思い出しました。「常人には認識できない理を一つ、皆さんにお話ししましょう。あなたが自分では何でもよくできると思っていても、運命の中にそれがありません。ところがある人は何をやっても駄目に見えていても、運命の中にそれがあるから、幹部になったのです」[2]。そこで私は、すべては私の修煉における向上のために、師父が按配して下さったものだと気付きました。
明慧での試練と向上
以前、ある同修から「本気で明慧に取り組んでいるのですか?」と繰り返し聞かれていて、信用されていないと感じた後、私は自身が真剣に修煉しているかどうかと疑問に思い、そしてその質問が時々脳裏に浮かんできていました。その後、『二〇一八年ワシントンDCでの説法』を読む中で、私は答えを見つけました。
師父はこのようにおっしゃっています。「しかも、明慧に関わる人は信頼できる学習者でなければなりません。直接、大陸の学習者と連絡を取っているので、とても信頼できる学習者でなければなりません。しかも、ここに専念し、本当に腰を据えて取り組む人である必要があります。特に若い大法弟子の加入が望まれていますが、彼らはなかなかここに専念することができません。ですから、非常に難しいのです」[3]
考えてみれば、私はいくつものプロジェクトに参加したことがあって、どれもを最後までやり遂げていませんでした。自分がまさに、師父がおっしゃっている「最も必要とされている」[3]若い大法弟子なので、明慧で最後までやり遂げ、このプロジェクトの中で法を正す師に手伝っていきたいと決心しました。
地元の編集チームに加わった後、最年少の私は、他のチームメンバーの間違いをあえて指摘しようとしませんでした。ある日、ある同修が「プロジェクトに責任を持つ」という観点から、他のメンバーのミスに気づいた後、優しく指摘してあげた経験を皆と共有しました。それに励まされて、時間が経つにつれて、私も対立を避けたがる執着を取り除いてく中で、徐々に良くできるようになりました。チームメンバーも指摘を受けた後、それを受け入れ、それ相応の改善をすることができました。
一方、私はよく自分の間違いをできる限り隠し、認めようともしませんでした。法輪大法を修煉し始めても、悟性が悪い私はその執着には気づいていませんでした。しかし、明慧に入ってから、私はすぐにその執着に気づき、深く掘り下げていくと、メンツを重んじる心が見つかりました。私はいつも、他人からよく見られたいと思っています。今は少しずつですが、自分の間違いや欠点を指摘されると、素直に認めるようになりました。
地元の明慧ソーシャルメディアチームの一員として
2020年12月、私たち地元の明慧は、ソーシャルメディアアカウントを使用して明慧の記事を宣伝する新しい試みを始めました。ある若い同修と私は、毎日2つの記事を選んで投稿することになりました。より多くの人がクリックするように、私たちは地元の明慧のウェブサイトに飛ぶ簡単なキャプションに、魅力的な画像をつけるようにと要求されました。ニュースレターの画像デザインについては、当初、他のプロジェクトの同修に協力を依頼しましたが、その同修は多忙だったので、私たちは自分でデザインすることにしました。努力を重ねていくうち、二人ともデザインの経験がなくても、私たちは自分でデザインできるようになりました。
若い同修と私は緊密に連携し、交代で私たちのファンページに記事を投稿しました。自分が作ったデザインがきれいだと感じた私は、いつも投稿した後、アップしたリンクのクリック人数をチェックしていました。競争心が芽生え始めた私は、常人が大法の真実を理解し、救われるように明慧の記事を読むように引き付ける方法を考えるのではなく、多くの人が私のリンクをクリックするように、同修より優れたデザインを作成しようとしました。私の執着心が現れた後、私の投稿を共有する人が少なくなり、リンクをクリックする人が少なくなり、それに対して、同修の投稿が好評を博したのです。疲れた私は少しずつ内に向けて探し始め、自分には強い嫉妬心があって、同修より良く見せようと競争していたことに気がつきました。
最近、私は 「嫉妬心」 に関する師父の説法をよく目にし、明慧ネットでも嫉妬心を取り除かないと危険だという体験文章もよく見かけます。私は、師父が私に嫉妬心を取り除くように念を押されているのだと悟りました。
執着を少しずつ手放し、心が楽になっていく中で、再びアップした投稿を見てみると、いいね! を押した人やシェアした人、そしてリンクをクリックした人が増えたことが分かりました。修煉は厳粛なことで、執着を取り除いていかないと、救えるはずの衆生が私たちの不純な心によって妨げられてしまうかもしれないと、私は気づきました。師父、ご教示下さり、ありがとうございます!
師父からの贈り物
修煉の道のりにおいて、よくできた時もあれば、きちんとできていなかった時もありました。しかし、私が精進していたとき、師父が常に励まして下さっていると感じていました。
昨年、協調人が突然、明慧国際法会の開催を発表しました。私は明慧の法会に参加したことがなかったので、それを聞いて興奮しました。法会の中で、同修の修煉体験を聞いて励まされて、私は自身の修煉および明慧の仕事をもっと粘り強く行っていかなければならないと感じました。そして、もっと感動的だったのは、慈悲なる師父が説法のために法会に参加されたことです。師父の言葉が私の心の底に触れ、私は涙をこらえることができませんでした。以前、同修が仕事をうまくやっていなければ、編集者である自分に面倒をもたらすと思い、よく文句を言い、すべてを自分の思い通りにさせようとしていました。その後、それが取り除かなければならない強いエゴの現れだと気付きました。
法会は7月のある日に開催されましたが、時差の関係で、私の誕生日である翌日の早朝まで続いていました。私はこれを、もっと勤勉になるようにとの慈悲深い師父からの贈り物だと理解しました。
私の法理の理解に限りがあります。法に符合しない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
尊敬する師父に感謝し、同修の皆さんに感謝します!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『二〇一八年ワシントンDCでの説法』
(2022年明慧多言語部門法会の発表文章)