ーー法輪大法の病気治療と健康保持の奇跡的効果
文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年10月9日】麻痺は、随意的な運動機能の低下または消失であり、神経系によく見られる症状です。麻痺は本人が苦しむだけでなく、ご家族の負担や苦しみも大きいものです。苦痛に耐えていくことを諦め、極端なケースでは自らの命を絶った人もいます。恐ろしい病気です。
法輪功を修煉する人の中には、修煉によって車椅子に別れを告げて再び立ち上がり、新しい人生を手に入れた半身不随の患者が数多くいるのです。
(前文に続く)
十四、産褥ヘルパー:法輪大法を学んで3日で完治
私は、黒龍江省の出身の52歳です。北京で産褥ヘルパーとして働いています。2017年10月22日の夜のことです。私は入浴中に誤って転倒しました。その場では何とか起き上がったものの、翌朝には起き上がれなくなり、腰もひどく痛むようになりました。雇い主の家族に支えられて、私は北京の宣武病院に行き、レントゲンを撮りました。医師は「骨折はしていません。腰椎椎間板ヘルニアと肉離れです」と診断し、多くの薬を処方し、家で静養するようにと言いました。
しかし夜になると腰痛が悪化し、まったく動けなくなりました。24日の朝、私は豊台病院に行き、3日間の治療を受けました。しかし症状が緩和しなかったばかりでなく、もはや自分の身の回りのこともできなくなりました。痛みもひどくて、鍼灸や透熱療法、マッサージ、そして薬のどれも効きませんでした。仕方なく、私は26日に北京漢方医診療所の整形外科に転院し、3日間治療を続けました。しかしここでも、一向によくなりませんでした。
その頃、私は腰や足の感覚がなくなり、動けなくなってしまいました。雇い主一家も怖くなり、私を実家に帰らせるしかないと思い、車いすで私を列車に乗せました。家に着くと、夫は私をおぶさって列車から降り、実家に連れて帰りました。
私は地元の有名な腰椎病専門のクリニックで治療を受けることになりました。このクリニックには、毎日30~40人もの人がさまざまな腰椎病の治療をしに来ています。車いすに乗って訪ねた私は、症状がもっとも重い部類の1人でした。鍼治療中に痛くて悲鳴を上げる人もいれば、すでに1年近く治療を受けて何万元も費やしたのに、いまだ良くなったり悪くなったりを繰り返す人もいました。
初日の治療が終わった後、夫から「早く大法を学ぼう。大法なら何でもできる」と言われました。大法の本を読んだことがある私は、大法がよいものだと分かっていたので、その提案に同意しました。しかし、悟性が悪い私は、やはり毎日鍼灸やカッピングをしにクリニックに通いました。不思議なことに、男たちは鍼を打たれて痛い痛いと叫んでいるのですが、私はあまり痛みを感じませんでした。
毎日、クリニックから帰ってくると、私は夫と一緒に『轉法輪』を読み、3日間勉強しました。4日目の朝に奇跡が起きて、私は立ち上がることができました! 転倒して以来、私はずっと動けず、し尿の処理はすべてベッドでしなければなりませんでしたが、急に自分でトイレに行くことができるようになったのです。私は大いに喜び、「師父が面倒を見て下さったのだ!」と分かりました。6日目に、私はすっかり回復しました。歩くことだけでなく、料理でも家事でも、何でもできるようになりました。クリニックの患者では私の症状が一番重かったのですが、治るのも一番早かったのです。これは師父が治して下さったのだと分かりました。私は飲んでいた薬を全部捨てて、診療所にも行かなくなりました。
この経験を通して、私は人生の無常を知り、法輪大法の大切さも痛感しました。大法の中にいてこそ、生命は真の意義を持つことができるのです。
十五、農村の女性:麻痺から23年後の奇跡
1973年7月26日、私は結紮手術を受けるために、やむなく病院へ行きました。手術前の私は、3人の子供を育て、義理の両親と話せない叔父を養う健康な主婦でした。当時、長男は7歳で次男は4歳、末っ子は生後3カ月でまだ授乳中でした。中国共産党員から何度も催促されて、仕方なく私は病院で結紮しました。
手術後、他の人は3日で目が覚めましたが、私は7日目になってようやく目が覚めました。家族は大いに喜び、「7日間も食事をしていなかったから、きっとお腹が空いている」と言い、私に食事を勧めました。起き上がって食事をしようとしたところ、私はなかなか身を起こせず、家族に食べさせてもらおうとしたところ、口も開けませんでした。そして気がつくと、私は手も上がらなくなっていて、目も見えず、体の感覚も全くなく、動けなくなりました。
焦りを感じた家族は、急いで医師を呼びに行きました。何人かの医師が来て、私の腕を動かしてみましたが、私の腕と足がこわばっていて、動かないことが分かりました。すると、医師たちは私の家族に「今から立ち合い診察を行うので、第三者には何も言わないで下さい」と言い、診察後、首を横に振るだけでした。
こうして、私は起き上がることなく、半身不随になりました。最初の6年間、私は体が麻痺しただけでなく、目も見えなくなっていました。病気を治すために、漢方薬や鍼灸、民間療法など、色々な方法を試してみると、ようやく少し光が見えるようになりました。しかし、足はずっと不自由で、口が歪む後遺症も残ってしまい、家族に一口ずつ食べさせてもらいました。15年間、ずっとそうでした。
それ以来、家のすべては夫に頼るしかありませんでした。農村は仕事が多く、3人の子供を抱え、父親であり母親でもある彼は、すべてをこなさなければなりませんでした。特に食事の時はさらに忙しくなり、子供に食べさせてから私に食事を与え、いつ自分の食事ができるか分からない状況でした。私の病気を治すために家はひどく貧しくなり、それでも治療法が見つかりませんでした。
精神面と生活面の苦痛に耐えられず、私は人生を終わらせようと思いました。夫の知らないところでオンドルから転げ落ち、何とか門を出て、家の前の大通りの真ん中まで転がりました。ちょうどその時、満員のバスが通りかかりました。運転手は路上に人がいることに気づき、急いでブレーキをかけました。そして運転手は私を抱き上げながら、「何をしているんですか?」と聞きました。私は自分の身に起きたことを話し、「これ以上家族に迷惑をかけたくありません。もう生きていたくないのです。もし死ぬことができなければ、政府に行って加害者を訴えたいです」と言いました。運転手は親切にも私を官庁に連れて行ってくれました。しかし、誰も解決してくれることもなく、事はうやむやに終わりました。
私が半身不随になって17年目、ついに連れ合いが過労で倒れ、この世を去りました。それ以来、私は肘や膝、お尻にシベリアノロジカの皮を巻き、這って移動するしかありませんでした。娘は週に一度、1週間分のご飯を炊き、その横にお茶碗と漬物、そしてバケツ一杯分の水を用意してくれていました。お腹が空いたら、私は自分でご飯を盛り、炊飯器で少し温めてから食べました。それが1996年まで続いていたのです。
半身不随になって23年目の1996年、私は幸運にも法輪大法に出会いました。その時、娘婿に大法を学ぶよう強く勧められた私は、「何を学ぶの? 私は歩くこともできないし、文字も読めない。学ばない!」と言いました。しかし、娘婿は諦めず、3日連続で私を煉功点まで背負って行き、師父の説法を聞かせ、功法を教えるビデオを見させました。
3日目になって、私は「いつも横になっていては、どうやって煉功できるのか? 起き上がって足を組まなければ」と思った途端に起き上がり、言葉では言い表せないほど嬉しかったです。「足を組まなければ!」と考えた私は足を組むことができ、しかも20分以上も坐禅し続けることができたのです。感動のあまり、心臓がドキドキしました。「座ることができて、足も組めたから、きっと立つこともできる。やってみよう」と思った私は、挑戦してみると本当に立ち上がって、しかも何歩か前に進みました。すべてが本当だと思えないほど、私は感動の涙を流しました。周りの人たちは呆然として、私が前に進むのを固唾を呑んで見守っていました。
立ち上がって煉功し始めてまもないある日のことです。私は同修たちに山登りに誘われました。私は一番目に山頂に着き、長い時間待っていると、やっと登ってきた彼女たちが見えました。これが大法の威力であり、私の身に起きた奇跡です。
どんなに天候が悪くても、昼も夜も、私は『轉法輪』を学びに、必ず時間通りに煉功点に行っていました。足が軽くて体も丈夫だと周りから言われています。私自身も20代に戻ったような気がします。大法に救われて、私は本当に幸運です!
(完)