【法会交流】共に誓約を果たそう
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2022年10月22日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

  私は明慧ネットの仕事に携わってから17年経ちます。皆さんと多くのことを分かち合いたいと思っています。しかし、私はプロジェクトのほとんどのメンバーのことを知りません。もしかしたら私たちは毎日オンラインで一緒に学法しているかもしれませんが、このプロジェクトの特殊性によって、私たちは控えめな行動を保っているため、いまだに他の学習者と、自分たちの仕事について共有していないのかもしれません。私は師父がこの特別なプロジェクトを私に按排してくださったことにとても感謝しています。私はこのプロジェクトの中で心性を高めることができました。自分自身がトラブルに遭ったわけではありませんが、協調人を含む同修に対してのことや、明慧の文章の作者、校正や篇あしゅうをする同修など、それぞれの同修が学び得たことから心性を高めることができました。とりわけ文章の作者が内に向けて探す時、私も内に向けて探します。それはあたかも一本のロウソクに火が灯ったように、暗さが消え、私はどこに向かうべきか、何をすべきか、どうして誤ってしまったのかが分かりました。   

 西洋人の学習者が師父の画像を送ってくれた

 ある西洋人の学習者には、いまも会ったことがありませんが、長い間あるプロジェクトのグループにいて、私に師父の画像を送ってくれました。その画像では師父が天上から下りて来られ、燦然たる輝きを放っておられました。随分経ってから私は画像の下の部分に「誓約」の2文字があることに気づきました。

この同修はこのような内容があることに気づいていないようでした。私は思わず胸に手を当て、自分は誓約を果たしているだろうかと、自問せずにはいられませんでした。私が思ったことは、もし私が翻訳の仕事をすると誓ったのなら、私はその仕事に十分力を注いだだろうか? 身を入れて仕事をしただろうか? やはり任務を終わらせたにすぎないのではないか? 毎月の最低のノルマをこなしただけではないのか? 私はパソコンの中の一つひとつのファイルや文書、そして自分がどのようにやってきたのだろうかと思いチェックしました。私は自分がやってきたことはまるでなっていないと感じました。私は西洋人の学習者が次に校正して仕上げてくれるからいいのだといつも思っており、翻訳の出来具合の重要さについて考えてもみませんでした。 

 私は「誓約に違反することの重大性」という文章を読んで間もなく、私たちは明慧のために翻訳すると誓ったのですから、私はしっかりと誓約を果たさなければならないと認識しました。

 私が好む事と好まない事

  私たちの地元の協調人は、いつもグループ学法に参加しません。それにはいつも理由がありました。私は出来るだけ彼女にグループ学法に参加するように励ましました。しかし彼女はほとんど参加せず、たまに来ても用事があるからと言い、彼女を参加させるのは難しかったのです。それから彼女は「今、消業中なので」と言いました。私はそれを聞いて、思わず「あなたはどうして私の言うことを聞かないの? あなたの安逸心はあまりにも重すぎない?」と反応してしまいました。後になって私の言い方は正しくなかったと気づき、修煉者としてこのような考え方をするべきではないと気づきました。私たちは同修に対して、常に前向きな考え方を持つべきです。

  彼女はいつも「私は・・・が好きではありません」と言い、その後、彼女は別の同修に彼女のプロジェクトに参加してもらう時、その同修が、「私はこのプロジェクトが好きではないし、私の夫も・・・が好きではありません」と言っているのを耳にしました。 

 私はちょうど彼女たちの会話を聞いて、どうして学習者たちがプロジェクトに対してこのように選り好みをするのだろうか、それは師父が按排されたものではないですか、と思いました。師父は「将来は寺院で修煉する専修の弟子も常人の中へ行って行脚しなければならないのです」[1]と説かれました。行脚はとても苦しく、私たちはやりたいことを選べるのでしょうか?

  私は文章を翻訳した後、学習者の書いた文章を読んで、内に向けて探しました。師父は「私はいつも皆さんにこのことを話しています。つまり、二人の間にトラブルがあった時、『私に何の問題があるのか?』と各自が原因を探し、みな自分にどういう問題があるか探すべきです。もし第三者が彼ら二人のトラブルをみたら、その第三者も偶然にそれを見たのではないと私は思います。『どうして彼らのトラブルが私に見えたのか? 私自身にも不足しているところがあるのではないか?』と第三者であるあなたまで考えるべきです。このようにすべきです」[2]と説いておられます。

 ですから、もし私が、他の人の話が法から外れていると感じたのであれば、それは自分の執着を探すための一つの機会なのです。私はいつも自分が「好む」か、「好まない」かを考えていました。そして私はある出来事を思い出しました。

  私は最近、あるメディアのプロジェクトに参加しました。文章のチェックの仕事に誘われたのです。私は「子供の携帯電話の乱用に関する文章」を書くことを提案したのですが、なかなか動きが見られませんでした。その後、彼らは私に、ある分野の文章をチェックするように言いました。私は不機嫌な気持ちになりました。私は、「内容とタイトルが合っていません。構成と骨組みを大きく修正します。私が読者なら、読んだら怒るかもしれません」と言いました。その後、私は自分の怒りはどこから来るものなのかと考えました。 

 すでに午後6時になろうとしており、編集者は私にメールを送ってきて、文章のチェックはどうなっているかと問い合わせて来ました。私は発正念をする時間になる前に、気分が落ち込み、どうしてこのような好きでもない文章をチェックすることに誘われてしまったのかと思いました。私は発正念をしている時、私はただの原稿のチェック係にすぎず、中立的にチェックした上で意見を提供すればいいのだと認識しました。私は読者調査をしていませんし、消費者を体系的に理解していません。私は無条件で編集者の指示に従うことができれば、提供した中の肯定的な意見にはいかなる観念もないので、それで良いのです。発正念を終えてから、私は文章をチェックし、タイトルを変更し、内容も変更し、こうすることが適切であると思いました。

 同修が消業の時

  上記で述べた同修の消業についての話に及んだ時、私の最初の反応は、「どうしてあなたは私の言うことを聞かないの?」でした。私はさらに多くの文章を翻訳するにしたがい、このような考え方をもつべきではないと認識しました。 

 私は常に前向きな考えを持つべきです。ある同修が、物を遠くにして読まないとはっきり見えないと言っていました。そして、私は彼に笑いながら「どうしてそのようにする必要があるの?」と聞きました。彼が言うには、以前別の学習者が同じようにやっていて、その時は彼も、その学習者のことを笑っていたそうです。そして「花も花でなくなる、四十八」(訳者注:中国では老眼の事を「花眼」と言い、40代は気をつけるべきという意味)と言いました。私も同じようになるかもしれないため、他人を笑うべきではないと認識しました。

  ある同修は私に、彼女の経験談を話してくれました。彼女は、ある同修の首に白癬のような皮膚病が出来ているのを見て、彼女はすぐにその同修に対してマイナスの考えを抱きました。その後、彼女自身の身体にも白癬のような皮膚病が現れました。とても痒くて、不快で、長時間かかってやっと治ったそうです。ですから、もし問題が起きたら、私たちは自分たちの考え方に正しくないところがないかを探す必要があります。 

 修煉は厳粛なことで、同修に消業の状態が現れた時、私たちは彼らを支援すべきであり、非難したり、嘲笑したりすべきではありません。私たちは否定的な考え方をしてはいけません。最近、私は他にも原因があることに気づきました。もし、ある同修あるいはその家族が、周囲の同修によって模範とされたり、過分に頼られるなら、旧勢力は口実をつけて、彼らを迫害するのです。なぜなら私たちの修煉には基準がないからです。さらに私が見たのは、修煉者同士の同修は夫婦関係がとても良かったのですが、その後片方が亡くなりました。ここには情の要素が絡んでいます。 

 このことは大法のプロジェクトを一緒に行う際の情を私にさらによく理解させました。私たちは互いに支え合い、協調し、私たちの誓約を果たすべきです。私たちは修煉によってこの情を取り除くべきです。情による原因で、もしかすると私たちは挫折するかもしれず、ひいては邪道に行ってしまうかもしれません。私たちのこのプロジェクトは、他のプロジェクトとは違い、同修に会うことができます。ほとんどの時間、多くのことを自分ではっきり分かって行う必要があり、私を助けることのできる人はいません。私は人と付き合うのが好きですし、このプロジェクトは私の修煉を助け、顕示心を取り除いてくれます。

 注:
 [1]  李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2]  李洪志師父の経文:米国西部法会での説法

 (2022年明慧部門法会の発表文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/4/450223.html)
 
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