文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年10月31日】なぜ、すべての修煉が、これまで色欲心の問題を重要視してきたのでしょうか? 根本的に言えば、神の世界には色や欲という概念すらなく、さらにはそのような低次元のものや行為はありません。それは、神や修煉とはあまりにもかけ離れているのです。
欲望そのものが非常に低次元で不浄
人間に食べ物がありますが、神の食べ物はもっとすばらしいのです。人間に服や装飾品がありますが、神の服装はもっと豪華で神々しいのです。人間に楼閣がありますが、神の神殿はもっと壮麗で輝かしいのです。人間に金銀財宝がありますが、天上にはすばらしいものが数多くあります。女性は美容が好きですが、神の肌は美容するまでもなく滑らかで繊細です。人間が持っているこれらのものは神も持っており、次元が高くなればなるほど美しくて清潔で、失われることがありません。人間の文化の多くは、天から降ろされたのです。
一方、色欲は情から派生したものであり、宇宙の最も低いレベルでしか存在せず、三界から出れば全く存在しません。常人でさえもこれに執着すれば低級な趣味と言うのですから、どれだけ低レベルなのかがわかります。修煉者が失うものは良くないものであり、よって色や欲そのものが濁って穢れた悪いものです。だからこそ低霊や怪しい憑依を呼び寄せ、修煉者にとって魔の妨害になります。
気づいた方もおいでかもしれませんが、人間のこの器官にはツボも脈もなく、何者でもないことを意味し、高いレベルでは、このようなものは存在しません。
神になるためには人の観念を捨てなければならない
大法は、心性の異なる生命に異なる形態と生存環境を作り出しました。神々の生活方式は、常人とはっきりと異なっており、服を着ていない神、形のない神もいます。修煉者として、色も含めて常人の中で形成された観念をすべて捨てなければなりません。
例えば、『ミラレパ佛の修行物語』では、ミラレパは長期にわたり洞窟で坐禅して苦行をしていたため、服が破れてボロボロになっていました。ある日、彼の妹に見つかり、見苦しい下半身の裸を見られて本当に恥ずかしくなり、「人に会うのが恥ずかしい」とため息をついてしまったといいます。ミラレパは妹を困らせないために、妹からもらった毛布で袋を作って着ましたが、しかし彼自身には執着がなく、このように話しました。「もし下半身の突き出した部分が恥ずかしいと思うなら、それでは手や足、頭、指など突き出たものをすべて恥ずかしいと思うはず」。もちろん、私達は常人の中で修煉していますので、このような振る舞いはできません。
古い大法弟子は、人間の状態に符合することをもって自分を欺いてはならない
大法の修煉は常人社会で行っており、大法弟子は配偶者を探し結婚して子供を生むことを恐れてはなりません。おそらく将来の人間の修煉はこのように行われるかもしれませんが、肝要なのは自分が修煉者であることを自覚しているかどうかにあります。
向上心を持たず、自分は常人の状態に符合し、常人の中でいつまでもこの行為や生活を維持しながら、三界から出て神になれると言う人がいますが、それは無責任な謬論です。特別な扱いはなく、古い学習者がこのようにすることは、自分を台無しにしているに等しいのです。
大法弟子は伝統に従って行動しなければならない 後世の人がそれを学ぶ
このような状況もあります。修煉の初期には色欲心に対して非常に敏感で興奮しやすいのですが、長年の修煉で常人の次元をはるかに超えると、色や欲があまりにも小さなことに見え、何でもないと見るようになります。すると今度は別の極端にはしり、異性と話しているとき小事にこだわらなくなり、自由奔放になり、異性間の同修が修煉について話しているのですが、話しているうちに脱線し、互いの欲望を引き起こし、何でも話してしまうのです。また若い同修が恋愛している間、自由奔放に行動したり、さらには公開した文章やビデオ番組で、あえて現代風の露骨な言葉や画像を使っている同修もいます。
法がこの世を正した後、人はこのようにするのでしょうか? しないのは明らかです。性の開放は、魔性を大いにさらけ出すことであり、人間の規範に符合しておらず 、変異した観念は社会を邪悪な方向に向かわせるのです。忘れてはならないのは、大法弟子が未来の人類のために基礎を作り上げ、人々を伝統への回帰に導き、それも最低次元に現した大法を守り、円融することになりましょう! 今日の大法弟子がどのように行ったのか、未来の世人が学ぶのです。これは些細なことなのでしょうか? ですから、同修は人としての行動に自らを律しければならないのです。
色欲に執着して泥沼にはまる教訓
数日前、ある女の子のイメージが頭に浮かび、この子は「すごくいい子だ!」と感情的に考えたため、 結果として妨害に遭いました。実は、私が想像したようなものはなく、世間には完璧なものはなく、未練を残す価値はないのです。これは旧勢力が私を困惑させるために、そう思わせたのです。
翌日、電動スクーターで帰宅する途中、私は雨でできた深い泥沼にはまりました。スクーターを動かすのは至難の業で、靴も泥沼にはまって動けず、一歩踏み出してはまたはまり、助けてくれる人もいませんでした。長い時間かけて力を使い果たし、やっとのことで泥沼から抜け出しました。汚くなり、疲れました。
偶然なことはないと知っていましたので、途中で「これは師父から私への啓示だ。色欲に執着することは、泥沼にはまり歧路に入り込むことだ。修煉において一歩を進むのも難しくなり、地上で囚われ、昇華することも円満成就することもできなくなるのだ」と悟りました。
想像してみてください。大法弟子が円満成就する日、円満成就した弟子はこの上ない栄光と聖なるものとなり、神々に迎えられ真っ昼間に空に舞い上がるようになるでしょう。一方、色と欲を放下していない大法弟子は、地上の泥沼にはまって抜け出せず、泥にまみれた醜い姿になっていて、こうなれば、師父や自分と衆生に顔向けできるのでしょうか?!
色欲の試練をなかなか乗り越えられない同修は、歴史上において自分が誰であるのか、何をしてきたのかを知っているそうです。ある同修が何世も同じだったかもしれないといい、またある同修は騙されて(書類)に署名してしまったり、あるいは現世で修煉する前に何かをしてしまったことがあると言いました。 旧勢力は長い間、大法弟子の執着を重くし、今日のことを按排し、難の大きい人を円満成就できないようにしています。しかし師父がおられ、法があるのですから、必ず円満成就できます。
大法を多く学び、『轉法輪』を暗唱するだけで円満成就はできません。修煉とはそんな簡単なものではないのです。 法を学び、暗記することは大切ですが、経書の知識を多く把握したからと言って、必ずしも円満成就するとは限りません。 肝要なのは、自分自身の日頃の厳しい修煉、心性を向上させレベルを高めることです。