【明慧日本2022年11月21日】(前文の続く)
鎮祥英さんは不当に拷問を受けて死亡
武進区安家舎鎮派出所長・洪建興は2001年2月、法輪功学習者(以下、学習者)6人を不当に連行し、洗脳班に入れた。中の2人の学習者は、拷問に耐えきれずに警官の要求に応じてサインをして解放されたが、法輪功の修煉をして健康になり、命を救われた鎮祥英さんを含む4人は修煉を守り続け、引き続き拘禁されていた。
洪所長は迫害を一層激化させ、ある日の午後、学習者4人を半日にわたって拷問した。
2001年3月3日、洪所長は受刑者に指示して棍棒で4人を酷く殴打させた。
2日後の夜、洪所長は受刑者3人に指示して、1メートル以上、直径4センチの木製棒で学習者4人を酷く殴打させた。結局、3本の棒は折れた。受刑者らは学習者の左足だけを殴打し、結局、学習者たちの左足は風船の様に腫れあがった。その後、また2時間立たせられ、夜12時以降になってからはじめて就寝できた。20日間にわたって、学習者4人は足の痛みで寝れず、歩行時も支えが必要だった。
鎮さんは痛みで腰を伸ばせず、腰を曲げながら、壁を支えにして伝い歩きをしていた。命の危険に晒されたので、同年4月13日夜、解放されて警官らに家まで送られた。帰宅できた鎮さんは腰を曲げたまま、痛みを耐え、3カ月後やっとベッドから降りられるようになった。
その後、鎮さんは北京へ陳情に行ったとして、2年の労働教養を強いられた。その上、息子の迫害死でショックを受け、鎮さんはついに2016年に他界した。
何度も迫害を受けた蔡建華さんは、不当な判決後に死亡
2000年7月22日、蔡さんは北京へ陳情に行っていた時、天安門で不当に連行された。地元の派出所の警官らは情報を得ると、当日夜、電車に乗って北京へ行き、蔡さんを地元の派出所に連れ戻した。洪所長を始め、警官3人は蔡さんを即座に訊問した。彼らは蔡さんの服を全部脱がせてひざまずかせ、それから殴打したり罵ったりした。蔡さんは「北京へ陳情しに行った目的は政府に真実を説明するだけでした。私たちは真・善・忍を修めており、よりよい人を目指しており、悪いことは一切しておらず、お金や財産など一切集めません。どこが邪でしょうか」と弁解したが、警官らにもっと酷く殴打された。蔡さんは両手に手錠をかけられ、一晩中痛めつけられた。
中共による拷問のイメージ図:殴打 |
翌日朝、蔡さんは朝食を摂らずに警官らに手錠をかけられて、ナイロンロープでドアの上に吊るされた。蔡さんは警官らに殴られたり蹴られたりして、半日にわたって痛めつけられた。正午、蔡さんが排尿する為に乱暴に降ろされ、すぐに50分間、意識不明になった。警官らは冷たい水を蔡さんの体にかけて蔡さんを起こしたが、すでに尿はズボンの中に流れた。その後、警官らは蔡さんを留置場に入れて1カ月間拘禁した。
同年10月、蔡さんは再度北京へ陳情に行った。地元の派出所の警官らは、また蔡さんを派出所に連れ戻して、手足に手錠を掛けて頭を水に押し込み、むせらせた。
夜、蔡さんは半ズボンでコンクリートの床にひざまずかせられた。10月8日から24日にかけて、蔡さんは毎日二食しかもらえず、夜は冷たいコンクリートの床に寝かされた。24日、蔡さんは留置場に入れられて1カ月間、拘禁され続けた。同年末、蔡さんは再度連行され、民間の旅館に拘禁され、そこで洗脳のビデオを強制的に見せられた。
2001年2月、蔡さん夫妻など学習者6人は洗脳班に入れられ、そこで酷く殴打された。4人は左足が風船のように腫れあがった。
それ以来、蔡さんは何度も連行されたり、拘禁されたりした。2020年、77歳の高齢で懲役3年の実刑判決を言い渡された。同年5月、蔡さんは収監される前に、死亡した。