文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年11月21日】私は2019年7月から法輪大法の修煉を始めました。今年59歳です。法を学び始めてから、私は人生の本当の意義とは返本帰真であることを知り、興奮した気持ちは言葉では言い表せないものでした。
私はとても喜びながら自分が大法を修煉し始めたことを妹に伝えましたが、邪党の嘘に騙された家族が皆、私が大法を修煉することに反対するとは思いも寄りませんでした。父はさらに電話で「もし君が法輪功を修めるなら、家に戻らなくてよい、俺にはお前のような息子はいない」とまで言いました。父の言葉を聞いて私は、彼らが法輪功と師父のことについて、どういうことなのかを理解してないと思いました。私は心を動ぜず、むしろ法輪功を必ず修煉しなければならないという一念を固めました。
煉功して四日間で無病状態になり、身体が軽くなる
修煉する前、私は良く寝ていて、一晩中寝ても頭がすっきりしませんでした。翌日の午前にはもう一度寝なければならず、時には正午近くまで寝ることもあり、さらに午後にまた寝なければならない時もあって、いつもぼんやりしていました。血圧が190まで上がり、ひどい時は体を壁に支えなければ歩けませんでした。時々心臓発作をおこすこともあり、ひどい時には片方だけ向いて寝るしかなく、寝返りも打てませんでした。また、腰痛持ちで、よく風邪をひいていました。病気になると、今にも亡くなってしまいそうな気持ちになる時もありました。
大法を修煉してから、師父はすぐに私の身体を浄化して下さいました。四日目に第五式の功法の座禅をしている中、まるで両腕から何かを引き出されたように、一瞬にして身体が軽くなった気がしました。それからは、すべての痛みが消え、身体が軽やかになり、飛び上がりそうになりました。夜に6時間しか寝なくても、日中は全く眠くなりませんでした。私の心の中にはいつも「私はもっと高く飛びたい」という考えが浮かんできて、その喜びは言葉では言い表せないものでした。
修煉を始めるのが遅くても、三つのことを疎かにしてはならない
修煉を始めるのが遅くなりましたが、三つのことを疎かにしてはなりません。私は法を学び、煉功する以外、電動自転車を修理する技術を活かして、縁のある人に法輪功迫害の実態を伝え、三退を勧め、心からの九文字を世の人々に伝えました。その間、一部の人を三退させることもできました。
ある日、辺りが暗くなってきた頃、1人の若者が、電動自転車のバッテリーが切れてしまい、私のところで充電しましたが、バッテリーは満タンにならなかったのです。私は彼に法輪功の実態を伝えたいと思いました。私は彼を10キロ離れたところまで自転車で送りました。彼に自分が大法を学んでから、「真・善・忍」で自分を律することにより、身体がどのように良くなったのかを伝えました。当時、私は面子を重んじる心、心配する心、話すことが苦手な心などをを乗り越えて、彼に中国共産党の関連の組織に入っていないかと聞いたところ、彼は党員だと答えてくれました。私は知識レベルが浅く、書けない漢字もあるので、彼に彼の名前を書いてもらおうと思いました。彼は 「明日、貴方の所に自転車を取りに行く際に、名前を書きます」と言いました。これは私が初めて人を三退させたことですが、目的地に到着した時にやっと三退させることができたのです。
故郷に戻り 法を実証する
2021年の年末、家族から電話が掛かって来て、兄と弟、妹はみな忙しくて、時間が取れないので、私に故郷に帰って母の面倒を見ることができないかと聞かれました。このことに私は困りました。故郷に帰ると、集団学法の環境を失ってしまうので、私はとても矛盾した心情でした。大法を学んでいても、親孝行もしなければいけないし、さらにしっかり親孝行をしなければなりません。このことを同修に相談した後、私は故郷に戻って法を実証し、法輪功迫害の実態を人々に伝えて、彼らを救うべきだと悟りました。
無事に故郷に帰り、実家に入った瞬間、病気の母がオンドルの上に横たわっている姿が見え、母は完全に自立出来ない状態になっていました。私は以前、母に座禅を教えたことがありますが、学法と煉功する環境がなかったため、母は煉功をせず、ただ時々師父の説法を聴いているだけでした。
母は以前、脚が痛み出し、一晩中眠れなかったのです。時々、脚の筋肉がナイフでえぐり取られたように痛くて全身が震えていました。今は一晩中寝ることもでき、痛くない時もあります。今回、母の為に修煉体験の録音をたくさんダウンロードして持って帰りました。その録音を聞いてから、母の様々な病気がなくなり、母は自信がつきました。特に父はそれを見て、「やはり煉功はすごく良いね!」と大喜びしていました。
最初、家族が法輪功迫害の事実を受け入れてくれなかったので、私は人一倍努力し、しっかり行うことで、彼らに大法を修煉してから自分が変わってきたということを見せようとしました。そして、母の面倒を見ることを少しも怠りませんでした。母は夜、ほぼ1時間おきに目を覚まし、トイレに行く際に、人の助けが必要でした。ほぼ毎日そうでした。しばらくすると、家族は皆、私の振る舞いを目にして非常に感心しました。私はいつもにこにこしながら母の世話をしていました。母も私にとても頼っていました。兄や弟、妹の家でしなければいけない仕事がある時、彼たちが私に一声をかけるだけで、私は直ぐに手伝いに行き、心をこめてして仕事をしました。母にお金をあげることや入院費の支払いに関しても、個人的な損得を気にすることはありませんでした。しばらくして、家族は今の私が以前の私と比べてかなり変わっていることに気付きました。再び法輪功迫害の事実を伝えると、彼らはそれを受け入れてくれ、大法が素晴らしいと認めてくれました。
危機の瞬間 師父が守ってくださる
この間、こんなことが起こりました。ある日、私は山に入り柴刈をしました。柴を全部縛ったら、その束が200〜250キログラム近くになりました。私は柴を70度近い急斜面に沿って転がしていましたが、思いがけず、なんと柴の束がまっすぐ進まず、引っかかってしまいました。私は山の斜面を下りて柴の束の下に行き柴を、まっすぐにしようとしましたが、柴の束が少し動き、柴の束に押され、よろけて、数歩後退して地面に倒れました。本能的に手で地面を支えましたが、思いもよらなかったことに、鋭い親指くらいの太さのノイバラの枝が、肋軟骨に突き刺さりました。もし柴の束が転がり続けてきたら、私は200〜250キログラムの重量に押され、その尖ったノイバラの枝が腹部を貫いて命を取られていたかも知れません。柴の束は転がり始めた瞬間、何かに引っ張られたようにすぐ止まりました。その時、私は師父が私を守ってくださったとすぐに分かりました。
父を三退させる
家の環境が良くなった後、思いがけないことが起こりました。兄と弟、妹が自ら私に「帰って良いですよ、私達が母の面倒を見るから」と言ってくれました。 私は帰りたかったのですが、母が許してくれず、私は「母さん、帰るよ」と言うと母は号泣しました。
数日後、私は卒業式の夢を見ました。周りの人は全員小学校のクラスで、その隣が幼稚園のクラスでしたので、隣の人に「もっと大きい卒業クラスはないんですか?」 と聞くと、彼は「ある」と言いながら遠いところを指さしました。私は間に合わないことを恐れて、そちらに向かって走りました。走りに走って、走れないにもかかわらず走り続けましたが、路は全部ぬかるんでいました。私は転んでしまいしましたが、その方向に向かって頑張って這って進み、這っては進み、這って進んでいる最中に目が覚めました。
翌日、私は急いで母に師父が悟らせてくださり、帰らないと間に合わないと伝えました。今回母も同意してくれました。母も私には法を学ぶ環境が必要だということを知っていました。
出発の前夜、私は必ず父の少年先鋒隊を脱退させなければならないと思いました。以前も、父にその話をしたことがありましたが、「良いと思うなら家で煉功すればいい、共産党に反対するな 」と言われました。当時、父の態度に私は難しさを感じ、それ以来、父に三退のことを話しませんでした。
そしてその夜、私は発正念して、父の空間場をきれいにしました。翌日の朝、食卓で私は父に「真面目な事を話します」と言いました。父は「何だ?」と聞きました。私は「お父さんは以前、態度が良くなくて共産邪党に迫害されましたが、結局、最後にはあいつらの傍らに葬るハメになります。それではあまりにも割に合わないでしょう 」と伝えました。父は「じゃあ、どうすればいいんだ?」と聞きました。「私がお父さんを脱退させてあげます。天と地、そしてお父さんと私だけが知り、ほかの人は知りません」と伝えました。父は「よし、それなら脱退させてくれ、誰にも言うな」と言いました。
弟子に人を救いたいという一念さえあれば、師父はいつでも弟子を助けて下さいます。