中国法会|青年弟子は技術支援で自らを修める(一)
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文/河北省の大法弟子  

 【明慧日本2022年11月26日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修のみなさん、こんにちは。

 私は、子供の頃からせっかちな性格で、すぐ焦ってしまうのです。その現れで夏になるといつもあせもが出ました。また、忍耐力がなく、お茶を濁すのが好きで、いつも難しい問題は他人に回して解決してもらっていました。 その心は、同修のためにパソコンのシステムを導入する際に露呈し、師父は私自身の執着心を見せて、正し、高めようとして下さいました。

 1996年、私は両親と一緒に法輪大法の修煉に入りました。この20年間、私は法輪大法を得たときの子供弟子から、修煉の中でどんどん成熟していきました。この20年間の修煉過程の中で、私は多くの苦難を経験しましたが、すべて師父のご加護の下で乗り越えてこられました。師父の慈悲深い済度に感謝しております。

 第19回中国大法弟子修煉体験交流会に際し、長年にわたり同修に技術支援をしながら、自我を捨て、人心を修めてきた過程を同修と共有し、同時に師父に御報告しようと思います。

 一、最初の志

 1999年7月20日、江沢民と中国共産党(以下、中共)は互いに共謀して、法輪大法と大法弟子に対して残酷な迫害を開始しました。 迫害が始まった当初は、地元の技術者たちが激しく迫害され、ある者は故郷を離れて海外へ、ある者は不法に投獄されました。当時は、地域でパソコンにシステムをインストールできる同修を見つけることは不可能でした。パソコンにシステムをインストールするためには、パソコンを持って、他の地域に住んでいる同修にお願いするしかありませんでした。

 そんな時、ある年配の同修が私のところに来て、一緒にシステムのインストールを学びましょうと誘われました。これまで私は、パソコンの技術と修理について知らないので、拒否反応を示していました。これは男性同修の仕事だが、自分には適していない、明慧ネットにアクセスできるだけでいいと思っていました。将来この方面で人の役に立つとは思ってもいませんでした。 気後れしながらも、「インストール方法を覚えて、同修を手伝うことができれば一番良いが、自分自身のパソコンの問題解決だけでも良い」と思いました。 そこで、同修と一緒に、パソコンにシステムをインストールする方法を学びました。

 年配の同修は、地方の同修からシステムのインストール方法を学びましたが、メモを取っただけで、実際に操作をしていなかったのです。 そんな中で、年配の同修と一緒に勉強したノートを見ながら学びました。インストールを覚える過程も、自分の心を修める過程であり、その過程でさまざまな問題にぶつかり、難しくもあり、面倒でもありました。

 二人とも未経験者のため、専門用語が理解できず、インストールをする途中で行き詰まってしまいました。一度行き詰まると、いろいろな方法を考えなければならず、半日がかりで調べて解決することもしばしばで、大変な苦労をしました。しかし、師父のご加持の下で、無事にインストールすることができました。

 二、心を修める

 私は、子供の頃からせっかちな性格で、すぐ焦ってしまうのです。その現れで夏になるといつもあせもが出ました。 また、忍耐力がなく、お茶を濁すのが好きで、いつも難しい問題は他人に回して解決してもらっていました。その心は、同修のためにパソコンのシステムを導入する際に露呈し、師父は私自身の執着心を見せて、直し、心性を高めようとして下さいました。

 あるとき、同修が新しいHPのノートパソコンを持ってきました。そのパソコンはWindows 10にしか対応していませんでした。しかし、当時、私はWindows10をインストールしたことがなく、Windows7とWindows8.1しかしたことがありませんでした。しかも、この技術を知っている地元の同修もいないので、本当に困りました。でも「パソコンを私のところに持って来たというのは、それは私がやるべきことなのです。また避けてはいけない。新しいパソコンに会うたびに同修に送り返すわけにはいかない」と考えました。やり方がわからなければ、勉強すべきだと決めました。

 パソコン技術フォーラムで解説書を読むようになりました。最初の頃は、人心を消去していなかったので、焦ったり、イライラしたり、怖がったりして、心が落ちつきませんでした。やがて解説書を見ていられなくなり、しばらく見ていると諦めたくなります。そして、心の中で「あのイライラしているのは自分じゃない、気持ちを落ち着かせよう」と自分に言い聞かせました。しかし、そのイライラの心がどんどん高まってきます。この心は、今のこの過程の中で修めて、取除くべき執着心であると気づきました。この心を取除かなければ、次のことを進められないと悟りました

 神韻公演の演目に、孫悟空が芭蕉(バショウ)の葉の扇を三度借りた話があります。その時、この物語が神韻のプログラムの中に現れるのは、きっと簡単なことではなく、修煉の要素があるに違いないと思いました。 火焔山(かえんざん)を越えなければ、西方(天竺)に辿り着けず、真の経典を手に入れることはできません。五行の中で火は心に対応し、このせっかちな心は、私の修煉の道の火焔山です。このせっかちな心を取り除き、心の火を扇で消すように修煉しなければ、涼しい世界になりません。そう考えると、後天的に形成された観念、偽りの自己を見分け、少しずつ切り離して排斥し、ゆっくりと心を静めていきます。心が静かになると思考がクリアになり、再び解説書を読むことができるようになりました。

 技術フォーラムの教程に沿ってソフトをダウンロードし、Windows10システムに関するほぼ全てのチュートリアル(訳注:パソコンの指導書)もダウンロードして、手順を編集して、1ステップずつインストールしはじめました。操作を間違えたら最初からやり直し、その繰り返しで2日くらいかけてようやく、同修のパソコンにWindows10をインストールすることができました。インストール作業中、心を放下すると師父が知恵を開いてくれて、まるで要領を得たかのようにスムーズにインストールできました。その後、技術フォーラムからワンクリックインストールキットをいただいたので、さらに短時間でインストールができるようになりました。

 ここ数年、私は同修にパソコンのシステムを導入してあげる過程で、いろいろなパソコンに出会いました。非常に低機能で古いパソコンから、新しくて高機能なパソコンまで、さまざまな種類のパソコンがありました。 パソコンのモデルやタイプが異なるため、新しい問題がたくさん出てくることがあります。問題に遭遇するたびに、もし私が近道をしたり、あるいは問題を他の同修に押し付けたりした場合、要するにトラブルを避けようとしている限り、問題がきちんと解決されず、やはり自分のところに再び戻ってくるのです。

 これは師父が私に、依頼心やトラブルを好まない心、そして困難を恐れる心を修めなさいということなのでしょう。 また問題にぶつかると、それを他人に押し付けるのではなく、自分で模索しながら解決するのです。面倒で忍耐が必要で、心が折れそうになりますが、心を修め,たくさん執着心を取り除きました。ここ数年、師父の加持の下で、私もこの分野での経験を積み、技術フォーラムで多くの助けを得てきました。これは多分、私の修煉すべき道だと思います。私は法の中で心を修め、心性を向上させ、正念に基づいてこの道を歩かなければなりません。

 同修が交流体験で述べているように、技術のある同修は、常人社会で訪問修理の技術者に似ています。違いは、私たちは無償だということです。技術がある同修は、同修の差し迫った問題を解決することができるので、一部の同修の目には貴重な存在なのです。多くの場合、同修は問題が解決すると、何かを技術同修に渡さないと耐えらず、感謝の気持ちを込めて、最高のものを渡したいと思うものです。私は世間体を気にする心、名利心を持っていますので、断わり方が分からず、断りにくい状況の中で、あまり価値のないものなどを受け取ってしまいます。

 ある時、同修にパソコンのシステムを導入し終えてから、その同修はどうしてもいくつかの食品を私にプレゼントしたいのです。私は「いいえ、家にあります」と言うと、彼女は「食べるのを手伝ってください。本当に家には食べる人がおらず、そろそろ期限切れなのです」と言いました。その時、賞味期限が切れそうなら持ち帰ろうと思い、受け取りました。帰り道、考えれば考えるほど違和感を覚えました。師父にしたがって法を正すことは、それほど神聖なことなのに、同修から何かを受け取るなんてあり得ません。何かを受け取ったら、性質が変わってしまうのではありませんか?

 師父の法は、私の頭の中で絶えず現れていました。「だんだんとちょっとした記念品を受け取るようになり、そのうち大きな物までもらうようになり、しまいにはくれるものが少ないと承知しなくなります」[1]

 そう思うと、思わず冷や汗が出てきました。 私のような修煉者はいない。ここで何をしているのだろう? 同修からものを受け取ってはいけません。帰宅後、食料品の値段を調べ、値段と同じ金額のお金を真相を伝える資料の経費にしました。こうして1、2回、真相を伝える資料費にお金を入れていました。もし、また同じ問題に遭遇した場合、私は注意を払います。

 師父は「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[2]と説かれています。

 ある時、同修の問題を解決してあげると、その同修はずっと私を褒めて感謝します。私は心がとても晴れやかになり、この膨らんだ心は自分ではないと分かり、心の中で「あの膨らんだ歓喜心と顕示心は私ではない。それは自分を証明する常人の心であり、私ではなく、私にはそれは要らない。それは私を害する」と、自分に言い聞かせながら注意しました。 私は心の中で絶えず師の法を暗唱しました。「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです」[3]。こうして私は、足が地面に着くのを感じ、現実に戻ってきたのです。

 私は、他の地方から来た同修の技術サポートを引き受けました。その同修も年配者で、パソコンのシステムを再インストールした後、起動やシャットダウンの最初から教え直さなければなりませんでした。 教えている最中に、少し焦ることもありましたが、黙って我慢していました。同修は年をとっているので、今の真相伝えを行っているのも大変だと思いました。その難しさを理解しましょう。 しかし、その心はまた出てきます。同修のために使った時間を無駄にし過ぎていると感じました。しかし、その同修がとても真面目に勉強していて、少しも気が抜けないように、すべてのステップをメモに取って、やっと身につきました。 彼女は家に帰ってから、パソコンをプリンターに接続できなくなるのが心配なので、私に彼女の家までついてきてほしいと言いました。

 私はずっと我慢していた心が湧き上がり、抑える事が出来ず、同修に何かを言ってしまいました。 その言葉を口にした瞬間、自分が間違っていることがわかったので、すぐに謝りました。プリンタードライバーはすでにインストールされているので、接続すればすぐに使えると説明しました。また、プリンタードライバーのコピーを渡しました。もし、プリンターに接続できない場合の対処法を教えました。そして「プリンターに繋がらない場合、取ったメモに従い操作してみて、それでも繋がらないなら、私はあなたのお宅に伺います」と言いました。

 後から考えてみると、やはり善が足りず、忍耐力がなく、他人が自分の時間を無駄にすることを恐れる私心、同修を恨む心を持っていました。 この出来事を通して、師父は私の執着心を取り除き、高めてくださったのです。

 (続く)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「定論」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/11/451508.html)
 
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