中国法会|三つの願いがかなった
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年12月30日】私は1996年6月に法輪大法を修煉し始めました。修煉する前に、私には思い出深い三つの願いがありました。当時の私が見たところ、これらの願いは実現不可能ではありましたがすばらしい願いだったからでした。

 最初の願い「母子の一家団欒」

 私が幼いころ母親が早世しました。継母が来てから、父親は私たちに関心を持とうとしなくなりました。旧正月に私たち兄弟姉妹が帰ってきても、継母は私たちのことを全く気にかけませんでした。

 1995年の春、いろいろな事情で、私の精神は崩壊の一歩手前にありました。私は夫と「私は何もいらず、あと数日生きれればいいので、離婚しましょう」と話し合いました。夫も私がずっと苦しんでいるのを見て、最後に納得してくれました。私たちは離婚するために裁判所に行って離婚の手続きをしました。

 中国の当時の経済的な環境下で、私は元の職場での仕事を失いました。頼る人もなく、住居もなく、収入も不安定な私は、仕方なく子供を夫に預け、やはり祖父母が子供の面倒を見てくれるだろうと思いました。しかし、ちょうど私が引っ越そうとした時、夫の弟が許してくれませんでした。夫の弟はその離婚は意味がないと言いました。夫の弟はすでにある人にこねを使い、離婚の協議を覆しました。夫の弟は三輪車の運転手に荷物を引かさせてくれず、私に絡みつき、そのため私はもう余計に1分でもその場所にいたくなくなりました。

 私は「恥をかくくらいなら、肉体的に苦しむ方がいい」という、体面を気にする人間でした。当時すでに離婚を恥じていた私は、下校時に補習校の先生や生徒たちにしつこく声をかけられるのを見られたくありませんでした。

 高校が必要としている科目を私が専攻していたため、この分野の教師が学校で不足しているという理由で、私は以前の職を失って以来、3年以上代理の教師をしていました。代理の教師をしていた時、教育の質の高さを評価され、市級の上質授業認定証を授与されました。また、別の高校でもこの分野の教師が不足しており、同時に講師を依頼され、そのため、当時は二つの高校で教えていました。しかし、私の仕事関係の書類(保管ファイル)は、贈り物を送らなかったため、教育部門へ異動することができませんでした。このような状況下で、私は仕事を辞めざるを得ませんでした。

 生活と面子を保つために、親戚の力を借りて、60代の人たちとともに、中高一貫校を卒業したばかりの農村の人たちと一緒に、遠く離れた場所で働くことになりました。貧困状態から救済し自立を助けるという名目で、実は私たちの安い労働力を買っていたことが分かったのは、後のことでした。仲介手数料は1人300元で、当時としては少なくない額でした。

 工場はとても厳しく、私たちに厳しく接しました。毎日、一日の仕事を終えて休むと、子供たちに会いたくなり、元夫をとても憎みました。元夫は悪い人ではないと思うのですが、私の身に起こったことは元夫の責任だと感じていました。ある晩、私の子供の継母が子供の髪を引っ張って壁にぶつけている夢を見ました……。私は泣きながら夢から目が覚めました。私は動悸が激しくなり、暗闇の中で紙とペンを取り出し「宇宙の中で私を主宰することのできる神よ! もし私たち母子が再会できるのであれば、私はいつだって良い人になります!」という言葉を書き記しました。

 実家の家族の多くは中国共産党(以下、中共)の体制内で働いており、そのほとんどが中共の党員でした。私自身は子供の頃から無神論の教育を受けてきましたので、正真正銘の無神論者でした。まさか自分が神様にお願いする日が来るとは思ってもみませんでしたが、その日、自分の無力さに、心の底から叫び声をあげました。しかし、母と子の再会は、私にとっては叶わぬ願いでした。当時、私はそんな心身の痛みに悩まされていました。

 第二の願い「師を敬うための独立した環境」

 1996年6月、私は法輪大法の修煉を開始しました。私は人生の眞諦の意味を理解し、人間の不幸はすべて因果応報の結果であることを知りました。自分を傷つけた人への恨みを少しずつ放下し、人にはそれぞれ運命があり、その運命は修煉でしか大きく変えられないと理解するようになり、私は心も体も大きく変わりました。

 法輪大法を修煉して、私は一日中幸せでした。ある時期、私はよく同修に「私はすでに半分神仙になっています!」と言いました。私の言うことは表面的で無知なくせに思いあがっていたかもしれませんが、私は確かに楽しかったのでした。

 1997年、私は職場の寮に住むことになりましたが、毎日滞りなく法を学び、煉功することができました。社長の息子さん(大学生)が遊びに来て、話をしている時、私が法輪功を修煉していることを聞き、外に煉功場があることを教えてくれました。夜間は会社のドアが施錠されているので、朝の煉功に出られないと知ると、すぐに私のために会社の表と裏のドアの鍵をくれました。私はとても感謝し、ドアの鍵を一つ預けておきました。また、この地域には私の知らない同修が2人いて、集団学法と煉功場のために私に会いに来ました。師父がいつも見守ってくださっていることが私にはわかりました。

 大法を修煉した結果、何事も大法に則って自分を律するように心がけ、同僚や上司からとても認められるようになりました。嬉しいことに、3人の同僚が一緒に煉功をするようになりました。寮の仲間も、私が大法書籍を読むのを快く聞いてくれました。私が留守の時は、同僚たちが師父に香を捧げました。当時、私は枕元にごくささやかな師父の写真を置いただけで、寮があまり師父を尊敬できる環境でないことを私は知っていました。

 冬の初め、私たちのところがシーズンオフで一日中仕事がない時に、私は法を学びました。毎日、学法と煉功のほかに『轉法輪』という本を1回読むことができました。皆が、とても親切にしてくれました。食事の時間になると、シェフが私を「お姉さん、ご飯の時間です!」と呼びに来ました。なぜ不愉快になることがあるでしょうか?

 しかし、嬉しい反面、一つだけ願いがありました。師父を敬う環境が別にあれば、どんなに素晴らしいことだったでしょう! 私の子供たちも大法の修煉を始めることができたら、どんなに素晴らしいことでしょうか! しかし「何がそんなに難しいのか?」と感じる人も多かったのでした。しかし、当時の私の状況を考えると、それは一つの願いでした!

 第三の願い「真相資料を制作する自分だけの空間を持ちたい」

 2008年10月、子どもの大学進学のために、私は地元の修煉環境に別れを告げ地元を離れて働かなければならなくなりました。友人や家族から、給料のいい仕事をいくつか紹介されました。考えてみると、私は大法弟子であり、大法と大法弟子は今も厳しい迫害を受けており、お金を稼ぐことだけに専念するわけにはいかず、もし仕事で外に出なければならない時は、中共の中心で仕事をし、最低限発正念をするか中共の近距離での仕事に行きました。

 私は北京行きの列車に乗り込みました。北京に着いてから、義姉の会社へ1カ月行きました。その時、私は「どんな仕事であろうと私はこだわりがない」という一念を発しました。最初の仕事に行き、師父から縁のある人を按排されました。

 最初の仕事は、生後5カ月の赤ちゃんを預かるベビーシッターで、給料は安かったのでした。私は大法に従って自分を律し、どこにいても人のことを考えるようになったので、たった1週間で、生後5カ月の赤ちゃんの家族は私を長期間雇うことに決めました。私がこれほどまでに認められたのは、私が法輪功の修煉者であり、師父から「常に良い人であるように」と教えられているからだと私は赤ちゃんの家族に伝えました。法輪大法と大法弟子が厳しく弾圧されている時に、この中共の中心で、実際に私と大法を認め、さらに将来昇給も約束されるとは思ってもみませんでした。赤ちゃんの家族は、本当に師父が按排してくださった縁のある人でした。

 もちろん、仕事の重要性からの試練はたくさんありました。やり切れない気持ちになった時、気持ちが苦しくなった時、師父の「佛は皆さんを済度するため、かつて常人の中で物乞いをしていたのです」[1]という法を思いだしました。私は気持ちを解くことができ、一気にわだかまりを解くことができました。ベビーシッターの仕事の間、雇用主の自宅を訪れた親戚や友人に真相を伝え、三退させました。

 正月を目前にして、前もって仕事の休みをもらい大法の真相垂れ幕を掲げるための材料を準備しました。雇い主の家族を怖がらせないために、大人も子供も寝静まった真夜中過ぎに部屋のドアを閉め、ベッドの上にビニールを敷き「法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい」、「私の師父は無実です」と書いた黄色の垂れ幕を置いて、急いで作りました。朝4時過ぎに赤ちゃんが起きると、赤ちゃんの母親は「今日は長いから休みなさい」とか「暗いうちは赤ちゃんの世話が大変なのよ」といつも言ってくれるのですが、私は資料作成のために夜の時間を放棄するのが忍びがたかったのでした。

 そんな時、私は「大法の真相を伝える資料ができる自分のスペースがあれば!」と思いました。しかし、大法と大法弟子への迫害が厳しさを増しているこの時期、多くの同修が北京に来ることが非常に難しく、車で取り締まられたり、連行され不当に拘禁されたりしていることを私は知っていました。ここはわずかな土地が金一升に相当する首都であり、私はベビーシッターのアルバイトで、どうすれば「大法の真相を伝える資料ができる自分のスペース」というこのアイデアを実現できるでしょうか? これは単なる願いなのでしょうか?

 道は曲がり願いが叶う

 1997年に話を戻しましょう。学法が進むにつれ、また大法の影響により、前夫への恨みを本当に放下することができました。ある時、実家に帰った時、私は感嘆して姉に「私はもう彼を恨んではいません。今度会ったら、法輪功の修煉をさせてあげようと思います」と言いました。

 私たちは皆、迷いの中で修煉し、学法を通じて、私たちのためにこれほどまでに罪業を請け負ってくださったのが師父であることを知りました。修煉前に経験した辛い人生にはここではほんの少ししか触れていません。話したいのですが、その話をすると一昼夜かかってしまいますし、あの時どうして私が幸せになれたでしょうか? 私のために多くの罪業を請け負って、私の人生の道を変え、人としての本当の目的を理解させ、多くの幸福を与えてくださったのは師父でした。しかし、修煉をしていない常人の運命は、誰にも変えられず、常人の運命は決められたものだからでした。

 元夫への恨みを本当に断ち切ってから、2週間ほど経った頃、元夫の訃報が届きました。私は驚きのあまり呆然とし、本当にかわいそうに思い、最後にもう一度元夫に会いに行きました。私が子供を連れて行きたいと言うと、子供の祖父はとても喜び、すぐさま「その子の父親は1円も持っていなかった」と言いました。私は何も言わず、そのまま子供を連れてきました。

 その後「どうしてこんなに落ち着いているのだろうか?」と自問しました。子供の頃から、大人が言った「葬式代のためにお金を貯めておかなければならない」と言うことはいつも聞いていました。私は葬式代が何のためにあるのか理解できませんでした。その瞬間私は突然「私は修煉しており、体に病気もないのに、お金がないことを恐れるのか?」と悟りました。

 社長はとても親切で共感してくれ、私をずっと雇ってくれました。ただ、子供を連れて食事や生活、学校の送り迎え(子供は小学1年生)などをするとなると、会社にも迷惑がかかると思いました。以前から会社が認めてくれていたため、私は会社の恩恵にあずかることができず、毎月地元の2倍の給料をもらっていた仕事を手放しました。

 「情を手放せなくて子供を迎えたのですか?」というある同修からの声もありました。この子の父親はもういないから今は情に流されたわけではない、と私は言いました。もし修煉者が自分の子供を大切にしないなら、どうして衆生を慈しむことができるだろうか、と私は思いました(これは私の次元での認識です)。もし大法を学んでいなければ、子どもを迎えに行く勇気も私にはなかったでしょう。

 苦労しましたが、私たちは2人でも余裕のある家賃の物件を借りることができました。部屋を片付け、私は師父の写真を供えました。荷物を整理していると、1995年に私が書いた「『宇宙の中で私を主宰することのできる神よ! もし私たちが母子で再会できるのであれば、私はいつだって良い人になります!』という一節が出てきました。私は涙を流し、二つ目の願いを思い出しました。今は、その一念で佛性が出てきたのではないかと思えてきました。何もわからなかった時に神佛に条件をつけても、師父はいつもそばにいて助けてくださいました。

 私の三つ目の願いはどのように叶ったのでしょうか? これはとても嬉しいことでした。なぜなら修煉すれば、さまざまな奇跡が起こるからでした。

 2008年末、私は休暇を取って帰宅しました。私が北京で働ていると聞いて、同修は同じように北京で働く同郷の人や仲間の同修と連絡を取り合いました。その後、弟から北京に出稼ぎに来ている女性の同修を紹介されました。

 私の子供が1歳の時、祖母がちょうど息子(訳注:私の弟)の子供の世話が終わり、孫娘(訳注:私の弟の娘)を引き取りに来ました。半月ほど前に家を出た時は、私はまだ次の行き先が決まっていませんでした。その時、弟から電話があり「借家をシェアしていた親友が、突然、別の場所に行ってしまった。その借家に行く気があるか?」と聞かれました。私は妹と相談し、経済的に余裕があったので、妹と共同で借りに行きました。師父は、どれだけ緻密で多方面な按排をしてくださったのでしょうか? 弟子には永遠に知る由もありませんでした。

 やがて弟の家にいた妹も大法を修煉し、私たちは最高の三姉妹になりました。私たちは4人(訳注:私、弟、2人の妹)で一緒に、法を学び、煉功し、真相資料を作り『共産党についての九つの論評』を配布しました。修煉が成熟するにつれて、それほど多くの願いは持たなくなりました。

 追記「息子からの嬉しい知らせ」

 修煉していない親戚は、会うたびに「子供の結婚に気を配っていない」と私を責めました。人にはそれぞれの運命があり、すべては自然に任せるべきだということを私は知っていました。また、親戚の利益面など多方面にわたる私や子供に対する傷も本当に放下することができました。息子は修煉者ではありませんでしたが、大法書籍を読み、私よりも心を広く持っていることが多かったのでした。息子の話す言葉の多くは、息子の口を通した師父からの啓示のようだと私は感じました。自分を傷つけた相手にも、息子はとても寛大で人に優しい人間でした。

 少し前のことですが、ある人から息子に恋人を紹介され、しばらく仲良くさせていただきました。ある日、子供(訳注:息子)から「お母さん、いいことがあるよ! すごいことだよ! 帰ってから話すよ」と電話がかかってきました。子供はその夜すぐ帰ってきて、私に「彼女の家には何人も大法弟子がいます!」と言いました。それを聞いた私は涙を流し、すぐに師父に香を捧げ、師父にどれだけ感謝しているかを言葉では言い表せんでした!

 この出来事をきっかけに、交流文章を書こうと思い立ちました。もちろん、大法の中で正していないこと、取り除いていない心、しっかり修めていないところもたくさんあります。「第19回明慧法会の原稿募集のお知らせ」を見て、私は原稿を書き始めました。法輪大法が広く伝わって30年、法を正す時期の修煉の23年、法が天体を正す時期がすでに終わり法がこの世を正す移行過程の中で、今後の修煉の道をどう歩むべきか、あらゆる執着を早い段階で放下し、人心を少なくし、三つのことをしっかり行っていかなければなりません。

 この万古の機縁を大切にし、師父の慈悲なる済度を無にしないよう、常に正念を保つように努力いたします!

 上記の内容に誤りがありましたら、同修のみなさんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 ありがとうございます、師父!

 ありがとうございます、同修の皆さん!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「真修」

 (明慧ネット第19回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/20/451556.html)
 
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