【明慧日本2023年1月27日】(黒龍江省=明慧記者)黒龍江省佳木斯市の王玉芳さんは以前大腸がんを患っていたが、1998年12月に法輪功を学んで回復した。1999年7月、中国共産党(以下、中共)による法輪功への迫害が始まって以来、王さんは法輪功への信念を貫いたとして、何度も嫌がらせを受け、中共の関係者に6回も連行され、労働教養、実刑判決を言い渡された。佳木斯留置場で薬物を注射されたことによって半身不随になり、一度記憶を喪失したこともある。2022年9月28日の朝、王さんはこの世を去った。59歳の若さであった。
2015年6月1日、王さんは法輪功迫害の首謀者である江沢民を最高検察庁と最高裁判所に告訴し、刑事責任を追及するよう要求した。王さんは訴状で次のように書いた。「私は真・善・忍を信仰しているという理由で、6回も不当に連行され、労働教養と実刑判決を宣告され、心身ともに限界まで巨大なダメージを受けました。仕事を失い、財産を略奪され、放浪生活を余儀なくされ、40代の私は髪の毛が真っ白になりました。江沢民が発動したこの迫害は、家族や身内にも大きな傷をもたらしました。私が拘禁されている間、ショックを受けて心配した母親は病状悪化のため入院し、特に幼い子供に与えた苦痛は言葉では言い表せないほどです。私が長年受けた迫害は、幾千万人の法輪功学習者(以下、学習者)のうちの一人に過ぎず、このすべての元凶は江沢民であります」
王玉芳さん |
以下は、王さんが自ら述べた法輪功を学んだきっかけと受けた迫害の事実である。
(1) 法輪功を学び大腸がんが治った
妹と二人で長年衣料品の商売をしていた私は、よく商品の仕入れのため出張し、1年のうち半年は家を空けていました。ある日、ハルビンに仕入れに行ったとき、突然腹の左側が激痛に襲われ、仕事もできなくなり、手ぶらで帰りました。家に着いてから急いで病院で検査をしたところ、佳木斯第二病院消化器科で大腸癌と診断され、さらに専門家や教授に診てもらいましたが、全員一致して大腸癌だと確認されました。
「私が死んだら、子どもはどうなるのだろう?」と思いました。子どもが2歳のとき、夫は病気で亡くなりました。今、子どもはまだ4歳ですが、私も大腸がんを患ってしまいました。子どものために死ぬわけにはいかないので、あらゆるところに治療に行き、大金を支払い薬を処方してもらいましたが、効果がありませんでした。
1998年12月初旬のある日、私は店に座ってぼーっとしていたら、隣の店の叔母が店の前で「大法を学んだらいいよ、生き返るかもしれない」と言いました。「大法とは何ですか?」と尋ねると、「大法は法輪功とも呼ばれ、人を救い済度するものだ」と教えてくれました。「どうやって学ぶのですか?」と聞いたら、叔母は「駅の西側にある本屋さんには法輪功の書籍があるよ、本を読めばわかる」と言いました。
そこで、その日のうちに本屋さんに行って『轉法輪』を買いました。帰宅後、一気に読みました。そして大腸がんが治り、身体が軽やかになりました。私は、大法の師父と大法への感謝の気持ちは、言葉では言い表せないほどです! それ以来、私はずっと法輪功を学び続けています。
(2)法輪功の無実を訴え北京で連行、金銭を要求される
1999年7月20日から、中共の江沢民集団は、テレビ、ラジオ、新聞を利用して法輪功を中傷し、濡れ衣を着せました。大法で心身ともに恩恵を受けた私は、法輪功のために北京に行くことを決意しました。北京に着いてホテルにチェックインすると、法輪功に誤解を持つ人に通報され、佳木斯市の北京駐在事務所まで連行されました。その後、佳木斯市の留置場に連れ戻され、7日間拘束されました。
同年、広州で学習者数人と借りた部屋に、突然大勢の警官が入ってきて、私たちは恐ろしい雰囲気に取り囲まれました。私の横にいた男性学習者が体を動かすと、警官に強く打ち倒され、地面で動けなくなりました。その場にいたすべての学習者がパトカーに押し込まれました。
広州の天河留置場では、私は毎日重労働を強いられ、動きが素早くでなければ、すぐ罵られました。その後、私は佳木斯市の留置場に連れ戻され、警官は家族に5000元を要求しました。
佳木斯留置場の部屋は、それぞれ10平方メートル以上の広さで、そこで20~30人ぐらいの人が拘禁されていました。食事とトイレなどはすべて室内で済ませ、夜は詰めて寝ているため、夜中に起きてトイレに行っていたら、自分の寝るスペースがすぐになくなっていました。毎日の食事は砂が混ざった硬い蒸しパンと凍った白菜のスープでした。学習者は責任者に手紙を書き、法輪功のことや迫害の実態を伝えましたが、彼らは聞く耳を持たず、すべての学習者を廊下に呼び出し、拷問を加えました。
(3)拷問され、喉が塞がれるほど腫れ上がる
2000年6月2日、数人の学習者と一緒に四豊山に行ったとき、警官により佳木斯留置場に連行されました。夜、私は郊区公安局支局の警官らにパトカーに乗せられ、頭に何かを被せられたので、何も見えず何処へ連行されたかは分かりません。その後、私はある部屋で手錠をかけられたまま鉄の椅子に固定され、ある警官が私の髪を片手でつかみ、首が90度の直角になるまで強く引っ張り、もう片方の手で私の首を激しく何度も叩きました。
留置場に連れ戻されたとき、頭に大きな瘤ができて、心臓発作を起こし、病院に運ばれ緊急措置を受けました。その夜、喉が塞がれるほど腫れ上がり、声も出せず、飲み物も飲めなくなりました。学習者の馬暁華さんは、私に食べ物を届けたという理由だけで、3年間の労働教養を科されました。
(続く)