着実に修煉し、全体を成し遂げることについての悟り
■ 印刷版
 

文/イギリスの大法弟子

 【明慧日本2023年3月23日】着実に修煉するには、私は二つの異なる「自分」をはっきり認識することが、非常に有効であること悟りました。この二つの異なる「自分」とは、師父について従う「真の自分」と、後天の常人社会で形成された様々な人間の考えや人心を持つ「偽りの自分」のことです。

 師父は「この世に生きている常人は皆本当の自分を失ってしまったのです。この観念は人の一生を左右するだけではなく、その後も続きます」[1]と説かれています。

 師父の説法から、常人は偽りの自分の中で生きているので、自分を見失い、本当の自分を見つけることができないのだと分かりました。大法弟子の修煉も常人からスタートするので、必然的に自分を見つけられない状態から、次第に本当の自分を認識し、戻ってくるという過程を経験することになります。それは個人が着実に修煉する過程そのものです。

 では、真の自分の状態とはどのようなものでしょうか? 私は法の中から次のように悟りました。真の自分は高次元から来たので、人間の七情六欲、あらゆる人間の考えや人心を持たず、常人の様々な利益やトラブルに振り回されません。一番低い次元の羅漢でさえ、常人が自分のことを良く言おうが悪く言おうが、常にニコニコして気にかけずにいられるのです。高次元から来た大法弟子の「真の自分」は尚さらです。

 つまり、大法弟子の「真の自分」は強力な全体であり、大法弟子を隔て、修煉と向上を妨げるものは、まさに後天の常人の中で形成された様々な人間の考えや人心などの偽りの自分および各次元の業力です。したがって、本当の自分が主役になればなるほど、全体が圓容になり、力も大きくなります。逆に、人間の考えや人心などの偽りの自分が主役になると、業力が押し寄せるのと相まって、身体に支障をきたしたり、心の葛藤が生じたりします。

 もし、私たちが速やかに内に向けて探すことができず、偽りの自分による妨害を抑えたり、取り除くことができなかったり、あるいは偽りの自分に振り回されたりすると、業力がさらに蓄積され、新しい業力を生み出すことになります。そうすると、全体として間隔が広くなり、困難も大きくなります。個人の修煉においても、業力の蓄積によって試練や魔難が大きくなるのは避けられないのです。

 以上のように、学法の中で二つの異なる自分の理解に基づき、私は試練やトラブルの中で、まず自分の人心が動かされていないかどうかを見るという習慣を身につけました。なぜなら、本当の自分は、常人のものに動かされず、動かされたのは後天で形成された人間の考えや人心に違いないことを知っているからです。ですから、自分の人心が動揺していることに気づいたら、私はすぐにそれをキャッチして抑制し、発正念をしてそれを滅します。

​​​​ このように真の自分を用いて偽りの自分を見つけて、それを捕まえるのです。次第に、自分の周囲で起こるすべてのトラブルが、偽りの自分を認識し、自分の業力を転化させるのを助けてくれていることに気づきました。したがって、私は最初の抑え切れない怒りから、だんだんとそれに振り回されないようにコントロールすることができるようになりました。そして、トラブルの相手の同修に心から感謝するようになり、トラブルは偶然ではないことを実感するようになりました。

 私たちの身に起こる大小さまざまなトラブルは、偽りの自分を認識し、業力を転化させるためにあるのです。逆に、トラブルがないことは恐ろしいことで、心性の向上や業力を転化する機会が失われてしまいます。絶えず偽りの自分を取り除く修煉を通して、自分の身に起こるトラブルが徐々に少なくなっていることに気づきました。

 私は、頭の中に悪い考えが浮かんだらすぐに掴んで滅します。執着するものがあったらすぐに取り除きます。人から褒められたら歓喜心を捕まえて取り除き、耳に痛い言葉を聞いたら不満や恨む心を捕まえて取り除き、仕事が良くできたときには顕示心があるかどうかを確かめるのです。内に向けて探すことは、時間や場所、回数に制限がないことが少しずつわかってきました。

 私の修煉状態も少しずつ変化しています。 以前から三つのことを努力してきたのですが、その裏には、個人の圓満成就のための私心があることに気づきました。内に向けて探すとともに、私の修煉状態も変化していき、だんだんと自分を感じ取れるか感じ取れないか、無為に近いような状態になっていきました。表面上の現れとしては、ただ自然に任せ、何も考えないという状態になっています。

 新たなトラブルが発生した時に、内に向けて探すことで、私はようやく、この無為な状態はやはり「私」のためであることに気づきました。未来の生命は他人のためにある、他人のために存在するのだと気づかされました。他人のためになることが一番難しく、自分の執着を取り除く修煉よりもずっと難しく、より多くの自我を放下する必要があると認識しています。最終的にどこまでできるかわかりませんが、他人のための生命になることは、私の修煉の明確な目標です。

 最近、精進している同修たちとよく交流していますが、その中で、「修煉が形式化しないように、お互いに注意を促しましょう」というコンセンサスが生まれました。長年にわたって三つのことを行う中で、無意識のうちに学法、煉功真相を伝えることを、あたかも仕事を済ませるかのように扱い、形式化する一方で、着実に修煉することを疎かにしたり、重視しなくなったりすることがあります。

15. 法を学ぶこと、煉功すること、仕事をすること自体はとても大切なことですが、心性を向上させ、真に法に同化することとは違うことに気づきました。常人は善行を積むことや苦しみを嘗めることもできますが、いくら善行を積んでも苦しみを嘗めても、やはり常人に過ぎません。なぜなら、人間的な考えが変わっておらず、心性の昇華がないからです。しかし、大法弟子の威徳の積み重ねは、心性の向上と境地の昇華の過程と分けられず、形式化したり、一つの仕事をこなすように扱ったりせず、お互い注意する必要があります。

 修煉中、旧勢力が大法弟子の人心と人間の考えに対して綿密な按排をし、その幾層の人心の背後には、私たちを台無しにする罠が仕掛けられていると、だんだんと分かりました。それは、中国本土では大法弟子に修煉を放棄させ、人を救うために真相を伝えることを禁じる高圧的な迫害に反映され、海外では、大法弟子を迫害するという同じ目的を達成するために、修煉の向上や人を救う多くの時間と精力を消耗させ、安逸心と名利心への執着を強めることに反映されています。

 私たちは着実に修煉してこそ、真に法と同化することができるのです。そして、着実に修煉する中で得られた知恵もまた、私自身の知恵ではなく、心性に対応する法の現れと、師父から与えられた知恵に導かれて、師父が按排して下さった道を歩むことができるのです。それとは反対に、人間の考えと人心は、旧宇宙が堕落した後の産物であり、旧勢力の機制と一体になっているのです。

 旧勢力が私たちの人心を掴んで迫害するとき、正義の神々は焦っても何もすることができません。私たちの正念が主導権を握るとき、師父の法身も正義の神々も私たちを加持して下さるのです。私たちの全体が強い正念を持っていれば、私達の背後には宇宙で最もポジティブな強い力があり、人間側に顕現すると、人を救うことにおいて大きな突破があるということを私は悟りました。逆に、私たちの全体は人心が強いとき、旧勢力に強く邪魔されたり、抑制されたりするのです。私たちの道は、師父が按排して下さった道に従って着実に修煉する道です。

 神韻の宣伝に協力し理想的な劇場を見つけることは、表面上から見ると、現地の大法弟子が神韻に協力して人々を救っているように見えますが、本質的には神韻が人々を救うのを助けていると同時に、私たちに修煉を向上させ、誓約を果たすための威徳を樹立する機会を提供して下さいました。

 また、チケットを売ることが目的ではなく、共に修煉を向上させ、誓約を果たすことが目的です。昨年、エジンバラに行ったときのことを思い出しますが、一番の変化は、自分たちが個人の支払った努力や、チケットを何枚売っているかということに執着するのではなく、いかにより良く協力して行えたかどうか、その過程の各段階に心を込めているかどうかということを重視していたことでした。チケット販売という結果そのものに執着するのではなく、一人ひとりの修煉の向上と協力がうまくできたことが、何よりも喜ばしいことです。私たちの人数はとても少なかったのですが、人を救う力は非常に強く効果的に感じられました。それは、私たちの当時の状態が法に符合したので、師父のご加持を得られたのだと思います。

 神韻を広めることの成功と一番理想的な劇場を見つけられたのは、師父が按排して下さった道に従ったからだと思います。師父が按排して下さった道を歩むことで、初めて実現できるのです。この道を歩むことができるかどうかは、私たち自身の心にかかっており、私たちの全体の力と協力し合う過程、そして、一人ひとりの大法弟子の着実に修煉する状態と神韻に対して、どのくらい心を込めているかにも直接関係しているのです。

 同修の皆さんがこの貴重な機会を大切にし、神韻を広める活動に参加し、より良く協力し合い、共に人を救うという使命を果たし、師父の慈悲なる救い済度に応えて誓約を果たすことを願っています。

 以上の交流は、あくまで私自身の限られた認識ですので、不適切な点があればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪(巻二)』「佛性」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/3/11/457613.html)
 
関連文章