「名」に対する執着を放下する
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文/香港の大法弟子

 【明慧日本2023年4月23日】私は法輪大法を学んでちょうど2年経ちました。この2年間で、大法は私の心身を鍛え、新たな生命を与えてくださいました。修煉前後の写真を見比べると、修煉の前は灰色がかったくすんだ顔をしていましたが、修煉後は赤みがさす健康的で優しい顔になっており、心から大法の素晴らしさに感激しています。大法を得た私は、本当に幸運です。私は毎日、法の勉強や煉功発正念、内に向けて探すこと、大法のすばらしさを伝えることに頑張っています。2023年の法輪大法デーが近づいてきたので、私は現段階の修煉の体得を、次のようにまとめました。

 先日、「保護者による物語の経験共有会」というイベントに参加しました。講座の担当者が自分の物語を語る技巧を話してくれのです。彼女はとても優しく、面白く、誠実な人でした。私も彼女のように上手に物語を語れるようになりたいと思いました。しかし、この「望み」は私の心を深刻に乱していました。その日、寝る前に、静功を煉るとき、頭の中にどうやって子どもたちに物語を語ろうかと考えて、まったく入静できなくなったのです。「私はなぜこんなに追い求めているのだろうか」と思いながら、その考えを抑えようとしても、毎回数秒しか抑えられませんでした。静功を終え合掌したとき、「大法は無辺だから、人を簡単に鍛えられるのだ。私が大法に同化すれば、私の一切の正しくない状態がすべて正されるのだ」と思いました。

 静功と発正念(23時の発正念)をした後、ベッドに入りました。一晩浅い睡眠でした。 夢の中でも、物語を語る関連のことで忙しく、以前のように深く眠ることはできませんでした。

 朝4時30分に起きて動功の第一式が始まったところで、私は追い求めていたものの答えが頭に浮かびました。それは、私がいかに「名」に執着しているかということでした! 物語を上手に語ることができたら、他の人からすごいという良い評価を得られると思っていたからです。「うまく語っていない」と言われると、辛くて不安になってしまうのです。私は物語だけに限らず、他のことも同じく、「名」にかかわることになると、とても感情的になり、その場で情緒を爆発させることさえありました。私は「名」をとても大切に思っていたからです。

 修煉者としては、より高い次元の法理で自分を律し、人や物事の良し悪しに対して真・善・忍の基準で量るべきで、他人の口からの「名」を気にすべきではありません。「名」に対する追求は、大法の要求とは違って、完全に常人の観念と執着です。私は、物事を良く行い(例えば、物語を上手く伝えること)、高い基準で自分に要求し、より良い人になるよう努力し、大法に同化して、本当の法輪大法の修煉者になりたいのです。他人からの称賛や評価のためではなく、そ「名」のためでもありません

 「名利情を修し去り 圓満して蒼穹に上る 慈悲をもって世界を看れば ようやく迷いの中から醒る」[1]という師父の詩があります。今の世で私はこの名前で呼ばれていますが、前世で私は何と呼ばれていたのか? 前々世での私の名前は何だったのか? 百年の「名」が跡形もなく消え去るのに、なぜそんなに気にしなければならないのかと思うと、喜びと安堵感が湧いてきました。他の人の優れた技巧を見習い、物語を伝えるとき、最善を尽くして子どもたちに楽しませれば、他人に認められるか認められないかに関係なく、気にせずにいられることこそ、大法修煉者が持つべき心構えだと思います。

 では、それと同じように、非難や批判を受けるとき、弁明や悲しみが必要でしょうか? 誰かが私の「名」を傷つけたと感じなくなれば、私は爆竹のように怒ることがなく、平穏に過ごせるでしょう。

 私の場合、「名」への執着と追求が強いという自覚ができると、闘争心や嫉妬などの良くない心が薄れていきました。これらの良くない心は、「名」という根元から枝葉が伸びているようなもので、根元が枯れてしまえば枝葉も元気がなくなってしまいます。

 私はまだまだ修煉の次元が低く、上へ修めるには程遠いことだと承知しています。もっと高い次元のことを想像して憧れますが、少しずつ、しっかりと自分を修められれば満足で幸せです。人生がある限り、修煉することは続けていきたいのです。修煉の道に入って本当によかったと思っています。

 師父、救い済度してくだり、ありがとうございます! そばにいてくれる同修の皆さん、いつも激励してくれて、感謝します!

 法に則っていないところがあれば、同修のご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「功成って圓満」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/4/6/458506.html)
 
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