師を信じ法を信じ 師父が与えられた修煉の機縁に感謝(一)
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文/ニューイングランド地区の大法弟子

 【明慧日本2023年7月3日】

 師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 ボストンの同修と一緒に師が法を正すことを手伝うことは、今年で10年目になりました。今日、ここ数年のボストンでの修煉体験をお話ししたいと思います。

 師を信じ法を信じ 困難な状況で悪いことを良いことに変える

 2019年の夏、私の身体に病業が現れました。それから間もなく、仕事で次から次へと深刻なトラブルに遭遇しました。心性の試練が次から次へと押し寄せてきて、私は自分の修煉において向上する必要があると気づきました。2019年の秋になっても、状況は良くなるどころか、より複雑になり、生活の中にはより多くの変化がありました。仕事、生活、体のストレスが重なり、自分が困難な状況に陥ったと感じました。

 実際、一番辛かったのは困難な状況と圧力ではなく、自分の修煉状態には何か問題があると感じたことでした。毎日いろいろなことが重なり、学法する時間を確保することが難しくなり、出先で運転しながら法を聴いたり、週に一度の集団学法に参加したりするぐらいでした。

 苦境に立たされ、そこから抜け出せずにいた矢先、また別の事が起きました。ある雪の夜、私は慎重に運転していましたが、赤信号の前で、すでにブレーキをかけていたにもかかわらず、私の車はゆっくりと滑り、やがて前に停車している車にぶつかりました。幸い、前の車の女性運転手には何の違和感もなく、彼女の車にもぶつかった形跡はなかったのですが、彼女はショックを受けました。連絡先を交換した後、私は相手に「もし車の修理が必要であれば、修理代を支払います」と伝えました。

 以前、大きな心性の試練に遭遇したときや関を乗り越えたとき、法を学び内に向けて探すたびに、師父からの悟らせを感じることができました。学法の時に、自分の執着心を悟らせる一節を読んだり、ふと師父の説法を思い出したりしました。2019年の夏以降、次から次へと試練があり、自分の執着心を見つける前に、また交通事故に遭いました。これは私の修煉に漏れがあり、しかも小さい漏れではなく、私を強く打ちのめしました。私は初めて自分の修煉に戸惑いを感じ、師父が何を悟らせて下さっているのか理解できませんでした。

 当時、ちょうどボストンでの神韻チケット販売を準備している最中、ニューヨークの同修が、チケット販売のトレーニングをするためにボストンに来てくれました。私はたまたまその同修と同じ車に乗ってトレーニング会場に向かいました。途中、トレーナーの同修は師と法を信じることの大切さを話し、聖書からサタンとエホバがヨブを試すために賭ける話を引用しました。その話とは、敬虔な信者であったヨブが、突然試練に遭い、財産も家族も健康も失いましたが、彼は信仰を放棄することなく、最終的に試練を乗り越えてすべてを取り戻したという内容でした。この話を聞いた別の同修は、当時の私に起こった一連のことを思い出し、冗談めかして「師と法を信じて下さいね」と念を押しました。この話を聞いたとき、私は師と法を信じることには問題がないと思い、気にしませんでした。

 しかし、修煉の道に偶然なことはないので、師と法を信じることに関連する話を聞かせてもらったのも偶然ではありません。浮き沈みの連続だった自分を、改めて考え直すようになりました。同修から聞いた話の中で、エホバとサタンがヨブから福を持って行く形で試したことが印象に残り、深く考えさせられました。自分は病気もほとんどせず、修煉者の家庭で育ち、アメリカへ留学して就職することができ、海外の大法プロジェクトに参加し、高速道路で交通事故に遭っても無傷であったこと等々、師父は多くの福を私に与えて下さいました。これらは常人の次元だけで感じたことです。

 困難な状況に陥ったからといって修煉に戸惑うことは、師と法を信じていない証拠ではありませんか! 自分のすべてが師父からの賜物であり、自分の人生は師によって按排されたものであるならば、何を困惑する必要があるのでしょうか。 そして、これらの紆余曲折や厄介なことは、私の修煉に大きな影響を与えることはなく、私は修煉を続けることもできます。内に向けて探すことや、心性を向上させ、法を実証し、真相を伝えることができるのに、なぜ常人の表面的な悩みに振り回されなければならないのでしょうか?  また、法の勉強を緩めた原因で、長い間、私は積極的に修煉するのではなく、消極的に受動的な苦しみに耐えていたことにも気づきました。

 師父は「法を学んであれこれの情況に遭ったと言っている人がいます。私がいつも言っていることですが、大法を学んだら、良いことにあっても悪いことに遭っても、皆良いことです。(拍手) なぜならば、あなたが大法を学んだから現れてきたことだからです。大法を学んでから、多くの魔難に遭っている学習者がいますが、もし修煉しなければ、これらの魔難はあなたを壊滅に向かわせるのです。大法を修めたから、これらの魔難が前倒しでやってきました。受けた圧力が強く、心性に対する試練をなかなか乗り越えにくく、時に大きな関に遭いますが、なんと言ってもこれらの魔難は必ず去っていくのです。全部清算され、勘定されるのです。(みな笑って) これはとても良いことではありませんか? ですから、良いことにあっても、悪いことに遭っても、大法さえ修めていれば、全ては良いことです。これは揺るぎのないことです」[1]と説かれました。

 法理上で明確になったので、具体的な問題も解決しやすくなります。交通事故が起きたということは、相手の女性と縁があることであり、善の縁であっても悪の縁であっても、この機会に彼女を神韻に誘ってみようと思いました。女性から「車に傷があり、修理が必要です」と知らされた時、私は女性の自宅を訪問することを決めました。一つは修理代を直接支払うためであり、もう一つは神韻を直接紹介するためでした。

 私は女性の家に行き、夫妻に会いました。そして自分は神韻のボストン公演の宣伝スタッフをしていることを話し、事故の後、私を困らせることがなかったことへのお礼として、家族を神韻のボストン公演に招待したいと話しました。驚いたことに、女性はとても興味を示し、以前から神韻の広告を見たことがあっても、なかなか観に行く機会がなかったそうです。最後に、私は彼女の家族4人分のチケットを買って、2020年のボストン神韻公演を鑑賞してもらうことにしました。神韻のボストン公演は疫病の影響で中止となりましたが、私が神韻の2022年公演の時に彼女に再度連絡したところ、女性は依然として興味を持ってくれました。公演後、女性は私に「家族全員が神韻の公演をとても楽しみました」と、お礼のメールを送ってきました。そのメールを見た瞬間、悪いことを良いことに変えるということについて、より深く理解することができました。それはすべて、師父の苦心なる按排であり、縁のある人がさまざまな機縁を通じて劇場に入り鑑賞できるようにするためであり、自分の持つ歴史的な悪業を良い形で解決できるようにするためでもある、と分かりました。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/5/26/461253.html)
 
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