師を信じ法を信じ 師父が与えられた修煉の機縁に感謝(二)
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 【明慧日本2023年7月4日】(前文に続く)

 協調の中で心の容量を拡大し 師父の按排を体験する

 私は長年、神韻グッズの販売に携わってきました。新型コロナウイルス感染症が流行する間、私は幸運にもニューイングランド地区で神韻のグッズ販売に再び携わることができましたが、修煉の角度から考えていなかったため、心の中で「次のシーズンから販売には参加しない」と決めました。思いがけないことに、私が辞表を出す前に、協調人の同修から突然、「神韻の公演中は他の仕事の協調が必要なので、神韻のグッズ販売の協調ができなくなりました。ニューイングランドでの神韻の物品販売の協調をお願いしたい」と連絡がありました。電話では、私はイエスともノーとも言わず、考える時間が必要だと答えました。

 協調という仕事に私はどちらかというと抵抗感があり、その理由はたくさん挙げられます。一つ目は、協調はとても大変な仕事だと感じています。二つ目は、この仕事に対して熱意がすでになくなっていました。三つ目は、ボストンには協調ができる同修がたくさんいます。四つ目は、協調は同修とのコミュニケーションと役割分担がすべてであり、私の性格はこの仕事に向いていません。五つ目は、この仕事は小売部門に属しており、多くの繊細な部分があり、面倒だと思っています。また、六つ、七つ、八つ、九つなどの様々な理由を挙げることができます。主観的な理由に加え、収納に関する客観的な困難もあります。

 考えに考えた末、協調したくない理由の背後には、プロジェクトに対する熱意の低下、修煉の怠惰、人を救うというプロジェクトの本来の目的を忘れて、心地よい現状から踏み出そうとしない安逸心、トラブルに直面する恐怖心などの人心が曝け出されたことに気づきました。協調の仕事は、師父が私に与えて下さった執着心を取り除く修煉のチャンスであると考えた瞬間、私はノーと言えませんでした。しかし、当時の修煉状態がベストでないため、口では引き受けましたが、心の中ではまだ納得しない部分もありました。そこで、私はわざわざボストン佛学会の数人の同修にメッセージを送り、私の協調は一時的なものなので、このプロジェクトを協調する適切な候補者を探し続けてほしいと強調しました。

 それまで神韻のグッズを保管していた場所が使えなくなったため、協調人になってから解決しなければならなかった最大の問題は、神韻グッズの保管場所を見つけることでした。幸いなことに、協力できる同修がいたので、保管場所の問題を一時的に解決することができました。思いもよらないことに、神韻グッズの担当者から連絡があり、「今年から販売に新たな要件が加わりました。神韻グッズには高級品向けにデザインされたカタログがあり、そのカタログを劇場で神韻グッズを購入した顧客に配布する必要があります」と告げられました。予定外の十数箱のカタログをどこに保管すればいいのか分からず、私は困っていました。神韻のグッズの担当者に相談してみると、彼女も困っていることが分かりました。最終的に、ボストンの同修の協力で、十数箱のカタログの一時保管場所を見つけることができました。

 神韻のボストン公演の前日、私は住んでいるアパートのロビーで20個ほどの箱を目にしました。隣人がこれほど多くの商品を注文したのを見たことがないので、好奇心に駆られ、私は箱に近づいて見てみると、なんとすべての箱が私に送られてきたものでした。送り主は神韻グッズの担当者でした。私は急に頭が真っ白になりました。担当者に連絡した後、すべての箱が間違って送られてきたと分かりました。表面上では同修のうっかりミスでしたが、実は面倒がる私の執着心を取り除くためだと悟りました。

 ボストンの神韻公演の後、またもや十数箱ものカタログが誤って送られてきたことに、自分は信じられないほどビックリしました。保管の心配をすればするほど、私の心性を直接試すかのように、同修は同じミスを二度繰り返しました。師父の巧妙な按排を感じながら、同修を寛容し、自分の心性を守り、容量を拡大するようにと自分に言い聞かせました。

 協調の中で自分の後天的な観念を取り除く

 今まで、自分にはある観念が形成されていました。即ち、プロジェクトやチームの需要は個人の需要よりも優先されるという観念でした。神韻の物品の販売を協調する過程で、私はこの観念の影響で、同修の個人的な利益に影響を与える決断をしました。その同修は理解してくれるだろうと思い、同修と連絡して説明しましたが、驚いたことに、同修は私が彼女の気持ちを配慮していないと反発し、次の都市の公演の販売には参加できないと即時に告げました。同修の突然の不参加は人手不足につながりますが、私は同修の考えを尊重し、彼女を責めることも不平を言うこともしませんでした。

 私は心を静めて学法しました。公演が始まる前に、この同修は私に声をかけ、引き続き販売に参加する意思を表明しました。私は同修の変化に喜びを感じ、同時にトラブルが発生するとき、師父には師父なりの段取りがあると悟りました。私にできることは、自分の心性を守り、突然の変化に心を動かされないようにすることだけだと思いました。

 この件が一段落し、その同修はなぜ自分が変わったのか、この件を通してどのように心性を向上させたかを全体の学法で交流しましたが、自分はやはりその時の決断は間違っていなかったと思いました。その後、同修との一連の心性の衝突が続いたので、私はそれまで自分が本当に内に向けて探さなかったことや、心の中でまだ誰が正しいか誰が間違っているかを強調していたことに気づかされました。さらに、私は「大法の基準で同修を量っているのか、それとも人間の考えで量っているのか」と考えました。私は後天的な観念によって最初の決断を下していたことに、ふと気づきました。だから、同修は、私が彼女の気持ちを配慮していないと感じたのは、当然だと分かりました。

 この一連の出来事を振り返ると、何一つ偶然な出来事はなく、すべてのトラブルは私の心性を向上させるために師父が按排して下さったことだと理解しました。この一連の心性の試練がなければ、私は長い間自然に形成された観念を早く発見することはできなかったと思います。

 わずか数カ月の協調の中で、似たような出来事はたくさんあり、それぞれの出来事の背後には、師父が細心に按排して下さった修煉の機会があります。神韻のグッズの販売を協調した短い経験は、協調人として自分自身の修煉状態にもっと注意を払わなければならないことに気づかせてくれました。同修が協力してくれるということは、同修の修煉状態が良いということであり、自分がうまく協調できているということではありません。同修が協力してくれないときは、自分の修煉を改善する必要があるということです。自分の修煉状態が良ければ、多くの困難の解決策が目の前に現れたり、突然ひらめいたりします。問題がしばらく解決しないこともありますが、それは、苦しみを嘗めることや忍耐する必要があり、あるいは自身の観念や人心に阻まれて、解決策をすぐに思いつくことができないからです。私はまた、内に向けて探し続け、心性を向上させることによってのみ、師父が段取りして下さった修煉の道をしっかりと歩むことができると悟りました。

 法が正される時期は最後の最後の段階に来ています。修煉の機縁を与えて下さった師父に感謝すると同時に、残された修煉の道をしっかりと歩み、より多くの衆生を救うために、ボストンの同修と共に精進していきたいと思います。

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 (2023年ニューイングランド地区法輪大法修煉体験交流会での発表文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/5/26/461253.html)
 
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