文/山東省の大法弟子 清水
【明慧日本2023年7月16日】2021年、私は母の実家がある場所に引っ越しました。私は母の修煉状態を心配しており、これは師父の按排だということを知っていました。私たちがt共に修煉の道を歩んだ後、私は自分の修煉のあらゆる側面について新たな理解を得ることができました。
母が修煉を始めることを願う
1996年、私は法輪大法を修煉し始め、10年以上私を苦しめていた胃の病気が治り、婦人病も消え、憑き物も消え、使いきれないほどのエネルギーを満身で手に入れました。私は、真・善・忍という基準で自分を律し、離婚に対する考えを改め、夫の激しい気性に関係なく、快適で幸せな生活を送っていました。
初めて母の実家を訪ねた時、私は『轉法輪』という貴重な書籍を持って行きました。私の家族全員がこの貴重な書籍を読み、法輪大法を修煉し、体も健康で心も幸せになることを私はどんなに願っていたでしょうか! 親戚たちが各自忙しく生活を送る中、私は母の後をついて回り、大法を修煉した後の喜びを母に話しました。母は、私が以前のような憂い顔を見せなくなくなったことを喜び、笑顔で私の話を聞きました。
母も大法書籍を手に取って読んでほしいと私は希望しました。母は妹の家族とずっと一緒に暮らしており、当時、妹の子どもはまだ1歳にも満たず、母は毎日子どもの世話をし、このように時が経つにつれて、本当に忙しくなり、本を読むどころではなくなりました。そこで、私はやり方を変え、母が仕事をする時は必ず母の隣に座って母に本を読み聞かせました。子供が昼寝から起きると、私は子供が母にまとわりつくのではないかと恐れ、子供を私が抱いて、母が『轉法輪』を続けて聞けるようにしました。このようにして、母の家を出る前に、やっと『轉法輪』を一通り母に読み聞かせました。私は本を家に置いて、みんなに読むように言い、特に母には法を学び続けるように言いました。
母は積極的に法を学ぶ
1998年、私が出産した時、母は早くから私の家に来て、子供が生まれると子供の世話を手伝いました。
妊娠中は自宅から近い病院を探すだけで、他の人のようにコネを求めたり裏口を使ったりすることはなかったと私は母親に言い、毎日、仕事から帰ると、体がどんどん重くなっても、頑張って食事を作り、正常に穀物や雑穀の食事を食べ、妊婦のための栄養補助食品は一切食べませんでした。一番大事なことは『轉法輪』を学び、毎日煉功を堅持することでした。子どもは出産予定日より1日早く生まれました。当時は大法に身をゆだねていましたから、何も心配することはありませんでしたし、他の人のようにお腹に包帯を巻いて体型を維持するようなこともしていませんでした。子どもの生後1カ月からおむつを洗い始め、1日にたらい2杯になり、できることは何でもやり、母と一緒に楽しい時間を過ごすことができ、体形もすぐに戻りました。
母は少しずつ、私が大法を修煉した後の順調さと超常さを見て、率先して法を学び、煉功するようになりました。1998年の年末のある日、母が「熱が出て、下痢をした」と私にささやきました。私は驚きましたが、すぐに母の体を調整してくださっているのが師父であることを理解しました。いいことだから怖がらないようにと、私は母に言いました。母は何も言わず、父や私の夫に心配をかけまいと、静かにトイレに行き、それからベッドで目を閉じて横になっていました。私は家の中の仕事を全部引き受けて、母に世話をかけないようにし、母は翌日には元気になっていました。母がこの関を乗り越えてくれて、私は本当に喜びました。
母の善念と私の心配
母は10年前から私の家に住んでいました。1999年7月、中国共産党(以下、中共)と江沢民が法輪功を迫害し始めた時、夫は恐れて私が大法を学ぶのを止めようとし、母に私への説得を頼みましたが、私は止めませんでした。母は私の夫に、私が煉功で体が健康になったことだけを言った、ということでした。母は私の育児を手伝う傍ら、法を学び、煉功しました。師父の新経文、明慧週刊、明慧週報を同修からもらい、すべて母に渡して読ませました。
ある時、母が子供を学校に迎えに行く途中、車に轢かれましたが、母は運転手から金をゆすらずに「大丈夫」と自分に向けて言って帰りました。後日、運転手が問い合わせてきて、私の自宅まで母に会いに来ました。母は誰にも言いませんでしたが、ぶつけられて痛かったところはすぐに治りました。
また、母は私の祖母と2番目の叔母に師父の説法の録音テープを聞かせました。私の祖母が半身不随で老人ホームに入居していた時、祖母の枕元に真相のお守りを置いていました。祖母を見まいに訪ねるたびに、母はいつも私の祖母と「法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい」という心からの九文字を念じました。その後、祖母は眠るように安らかに息を引き取りました。また、2番目の叔母は、師父の説法の録音テープをずっと保管し、2番目の叔母も心からの九文字を念じ、中共の組織を脱退し、福報を受けました。80代になった2番目の叔母夫婦は、生活環境を整え、息子のそばで老後を過ごそうと、息子の家がある南部に家を購入しました。
残念ながら、この10年間は、私は家事の負担が大きく、真相資料の配布に追われ、母と一緒に法を学び、煉功する時間を確保することができませんでした。心性を向上させる方面で、私たちは修めず、表面だけを修め、トラブルに遭遇しても、自分を探すことはありませんでした。私と母の間、そして父と母の間は、家族の些細なことでよく言い争いになりました。
母が実家に帰ってから、母の修煉状況についてずっと気にかけていました。母の周りには同修がいないので「明慧週刊」の毎号の電子ファイルをMP5に保存して、時間のある時に持っていき「明慧週報」も母に送りました。年に1、2回、1週間ほど帰省して、修煉体験と法を正す進展について母と交流し「くれぐれも修煉を堅持してください」、「これ以上修煉しないとか言わないで、千万年も待ったことが台無しになってしまいます」と言い聞かせました。母はいつも納得しました。
しかし、次第に、母は負担の重い家事やアルツハイマー病の父の介護、仕事や勉強にストレスを感じている妹や妹の子供の世話に追われ、学法や煉功が追いつかなくなったことがわかり、私は不安でしたがどうしようもありませんでした。私は母に電話して、情を放下するように言い「明慧週刊」の電子書籍を渡して、母が「明慧週刊」を読んで向上してくれることを強く望みました。私は修煉体験がある時に、母に電話をして、法輪大法の修煉から離れさせないように、賢明に母と交流しました。
たまに、母は、生活費を払うために役所に行く時や、父のことで病院や老人ホームに行く時、毎回途中で「法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい」と念じ、さらに正念を発したと私に話しました。私は母に「明慧週刊」を渡し、母も「明慧週刊」を配りました。また、母は法輪功に関する文言を印字した紙幣を堂々と使い、私が渡した法輪功に関する文言を印字した紙幣を使い終わると、紙幣に真相の言葉を書き、続けて使いました。私は母に安全を確保するように言いました。母はとても純粋な心の持ち主で、レジの店員に目もくれず、けちけちせずに法輪功に関する文言を印字した紙幣を使ったということでした。そのような母の話を聴くたび、それに比べて自分は人々に真相を伝えることに不安や恐れを抱きすぎているのではないかと私はいつも恥ずかしくなりました。
ある時、私の祖母の実家が売れたことがありました。祖母の実家は祖母の名義であったため、祖母の希望により母がいくらかのお金を払って母名義に移したので、母が売却したお金を受け取る権利が当然ありました。しかし、母は私と交流した後、先祖代々の財産だから自分が住む分には問題ないが、今、売るとなると300万元以上の現金になり、1人でもらうには心に忍びないと思ったようでした。その後、母は兄弟姉妹6人で均等に分配することにしました。母は、このように処理して本当に安心した、と言いました。家族の長老たちは、私が法輪功を修煉していることを知っており、母が現金を兄弟6人で均等に分配したので大法弟子を心の底から信頼してくれました。母と私が何人かの親戚に大法の真相を伝えた後、親戚たちは中共の組織を脱退しました。
(続く)