――かつて虐待を受けた農村の嫁の体験
文/中国の大法弟子 艾珍
【明慧日本2023年7月30日】私は1999年に法輪大法を修煉し始め、現在(訳注:2022年11月)67歳です。真・善・忍を堅く信じているために、私は中国共産党(以下、中共)に何度も連行され、不当な家宅捜索を受け、勾留され、二度労働教養に科されました。以下は、私自身の修煉の中からいくつかの体験の一部を書き出し、師父にご報告するとともに、同修の皆さんと交流したいと思います。
恨みを修めて取り除く
義理の両親の家には、私の夫と息子が1人と、義妹が3人いました。結婚してからは、7人家族の家事をほぼ一手に引き受けていました。当時は、流行後れの服を買っては、家族すべての服を手縫いしていました。洗濯機もなく、すべて手洗いで、井戸からバケツで水を汲んでいました。
25キロのトウモロコシの粉を水で薄い糊状に溶き平鍋に流してパリッと焼きあげ、朝から晩まで誰にも頼らずに仕事をしなければならず、毎日疲れて夕食も食べずに寝てしまうほどでした。しかし義母は、私が普通にトウモロコシの粉を焼きあげたものを食べたい時に食べさせてくれませんでした。私が麺類を作るとみんな食べましたが、私には乾燥ニンジンと干し芋しか食べさせてくれませんでした。妊娠してお腹が大きくなっても、同じでした。少しの食事ではお腹がいっぱいにならず、それでも働かなければならず、近所の人たちも見るに耐えませんでした。
入院して息子を出産した後、入院している8日間だけ義母が私のために卵を8個持ってきてくれました。退院後、村の人が卵をたくさん持ってきてくれたのですが、義母が全部売ってしまいました。出産してからの1カ月の間、私は卵を26個しか食べられませんでした。また、出産後1カ月の間に赤ちゃんのおむつを洗わなければなりませんでした。おなか一杯に食べられないため、空腹で私の体は35キロしかなく、歩くと倒れてしまうほどでした。子供を育てていたため、仕事量が少なくなり、義母から叱られました。私は何度も死にたいと思いましたが、死ねませんでした。その頃、私は義母を心底憎んでいました。
子供が生後6カ月になった頃、義理の両親が老朽化した家を二軒見つけてきたので、離れてて住むことになり、義理の両親はお椀を二つ、お箸を二膳、小鉢を一つ分けてくれました。しかしその家は、雨が降ると必ず雨漏りしました。私たち一家は苦境に立たされ、1年に500グラムの油も食べられない状態でした。貧困と恨みで私は病気になり、腎臓の感染症で血尿が出て、歩くのもままならない状態で、子どもの世話もできなかったので、子どもを実家に預かってもらいました。
私はもう義理の両親の家のことには関わりたくないと言いましたが、夫は義理の両親のところで仕事をするように言いました。義父が亡くなってから、義母と義妹3人は畑仕事ができなくなり、私たちはよく義母と義妹3人にいろいろ頼まれるようになりました。しかし、仕事が終わっても、義母と義妹3人は私に優しい言葉すらかけてくれませんでした。私の義母への憎しみは日を追うごとに増していきました。
1999年2月、私は法輪大法を修煉し始めました。
師父は「誰かに辛く当たられたりした場合は、たいてい次の二つの状況が考えられます。一つはおそらく前世にその人に対して何か悪いことをしたのかも知れません。あなたは、『どうしてわたしにこんなひどいことをするのだろう?』と言って心のバランスをくずすかも知れませんが、しかし、あなたはなぜ前世でその人にあんなことをしたのですか? 『あの時のことは知らない。現世は前世と関係ない』とあなたは言うかも知れませんが、そういうわけにはいきません」[1]と説かれました。
師父の説法を学び、私は突然「私が過去に義母にひどい仕打ちをし、傷つけたため、義母は、私にこのような仕打ちをするのだ」と悟りました。宇宙の法理がすべてを制約しているので、作った業は返さなければならず、誰も言い逃れできません。それ以来、私は義母と義妹3人と言い争わなくなりました。義母の診察代はすべて私が負担しました。義母は全財産を3人の娘に分けましたが、私は怒りませんでした。義母の家の物を娘に全部持って行かせても、私は気にかけませんでした。なぜなら、師父は私に最高のものを与えてくださり、私は師父の教えの通りにしたからでした。このようにすると家族全員が喜びました。
私は義母への憎しみを完全に放下し、病気で寝込んでいる義母の面倒をよく見て、師父の著書『轉法輪』を義母に読み聞かせました。義母は何カ月もベッドから出ず、亡くなるまでまったく痛みを感じませんでした。義妹は、私が義母に大法の本を読む機会を与えたので、義母が大法の恩恵を受けたのだと言いました。
義母が亡くなった後、夫は20人以上の村人の前で、私が法輪功を学んだから母親に良くしてくれた、村人も私を見習って年老いた親に孝行するようにと言いました。また、夫は「私の母親が嫁にどう接していたか、皆さんご存知でしょう。もし嫁が法輪功を学んでいなかったら、母親を介護することができたでしょうか? お金をもらったのではないかって? まさか、それは私にとっては難しいことです。現在いくらお金がかかろうとも、彼女は損得を気にしません。李先生がお伝えになったこの法はとても素晴らしく、善に向かい、心を優しくすることを人に教えることができます」とも言いました。夫はどこに行っても「李先生は本当に素晴らしい先生で、こんなにもたくさんの良い人たちに教えてきました」と話しました。
人々を救う
人々を毒害する中共の嘘を打ち破るために、私はいつも真相資料を配りに行きました。姉(同修)もいつも一緒に配りました。昼間は仕事があったので、二人で夜に外に出かけ、一人200部ずつ真相パンフレットを持って村々をまわりました。朝でも夜でも、家に帰る前に必ず真相資料を配り終えてから帰りました。
村の出入り口に犬が何匹も繋がれている村がありました。当初、村に入ると吠えたり噛んだりするので、私は犬たちに「ほえるのはやめて、あなたたちを救うために来たのだから『法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい』と覚えれば、いいことがあるよ」と言いました。すると犬たちは吠えなくなりました。その後再びその村に行くと、犬たちは吠えることも噛むこともなく、ただただ私たちに尻尾を振ってくるだけでした。村人の家の庭の戸口にパンフレットを置くと、庭の犬が走ってきて吠えることもありました。そこで、私は犬に「私はあなたを救うために来たのだから、ほえないで『法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい』ことを覚えて」と言いました。するとその犬は吠えなくなりました。村で放し飼いにしている犬の中には、私たちが人を助けに来たことを理解してくれたのか、尻尾を振って私たちの後ろをついてくる犬もいて、まるで私たちの勇気を後押ししてくれているかのようでした。
ある年、麦畑で草を抜きとっていた時、足が何か虫に刺され、かゆくて手で皮膚を掻いたら血が出て、足全体が青紫色になり、ただれました。常人は私の足を見て心配し、早急に治療を受けるように勧められました。これは、私の師父が今まで積み重ねてきた病業を押し出してくださっているのだと思い、気にせずに行うべきことを行いました。この状態は数カ月間続きました。
ある日の夕方、姉と真相資料を配りに行ったのですが、その日は途中から大雨になりました。真相パンフレットはビニール袋に封入されていたため、雨の中でも滞りなく配布を続けることができました。路上の水は足首までありました。牛を飼っている家があり、雨で庭の糞尿が道路に流され、牛糞の強烈な臭いを放っていましたが、私は雨の中を歩いて渡って行きました。真相資料を配り終わったのは、その日の午前3時でした。家に帰ると、家の中で体を水で流しました。出血した足が白くふやけ、翌日には痒みが止まり、さらに膿が出ているところの傷もすぐに閉じました。3、4日で足は完治しました。
2015年4月25日、1台のバンに真相資料を配りましたが、中に3人の警官が座っていて、私は警察署に連行されました。私は警官たちに資料の出所、家はどこかなどを聞かれました。私は協力しないで何も答えず、ただ警官たちに真相を伝え「法輪大法はすばらしい」と言い『洪吟』を暗唱しました。警官たちは私の写真を撮り、インターネットで私の情報を見つけ、私の住む村の警察署に知らせました。
村の警察署の警官が不当に私の家に家宅捜索に行き、鍵がないので塀を飛び越えて私の家に侵入しました。警官たちの電話のやり取りを私は全て聞いていました。同修から1000部以上の真相資料が届いていたばかりでしたが、配布したのは200部足らずです。どうしたらいいでしょうか? 人を救うためのこれらの真相資料を作成するのは生易しいことではなく警官たちが奪うことは許されません。「警官たちに真相資料が見つからないように、私の家に覆いをかけてください」と私は心の中で師父にお願いしました。結局、警官たちが私の家を調べましたが、あちこちに散らばっていた40冊の真相パンフレットを持って行かれたことを除き、いろいろなところに隠しておいた真相パンフレットは1冊も警官たちに見つかりませんでした。師父、ありがとうございました!
パトカーの中で、2人の警官に真相を伝えると、1人の警官は三退しました。その夜、警察は私を市の拘置所に送り、15日間私を不当に勾留しました。拘置所に着いた時「ここに救わなければならない人がいるに違いない」と私は思いました。
この拘置所の管理は比較的緩やかで、異なる監房の人たちが互いに訪問し合うことも可能でした。翌日、多くの人が私の監房にやってきて、私は真相を伝え、法輪大法がすばらしいこと、「天安門焼身自殺」の捏造の真相、中共とは何か、なぜ三退しなければならないのかなどを話し、その結果、8人が三退しました。その時、何人かが「法輪大法はすばらしい!」と叫びました。
毎日、私が監房の人たちに真相を伝えると、監房の人たちもまじめに聞き、人間性の中の善の一面が出てきました。監房の人たちはみんなとても親切で、何人かが「おばさん、外に出たら必ず安全に注意してください」と言いました。夕食の時、法輪功修煉者には食事がなかったので、監房の人たちは自分たちの食べ物を私に分けてくれました。
私は毎日真相を伝え、煉功し『洪吟』を暗唱していると、いつの間にか5月8日になっていました。何人かの人たちが私の監房にやってきて「あなたの刑期満了は明日で、私たちの刑期満了も明日です。しかし、明日は日曜日で、誰も解放されません」と言いました。私は「なぜですか?」と聞きました。ある人が「ここの規定で、私は何度かここに来ているのですが、日曜日が刑期満了になった人は、1日余分に滞在しなければならないのです」と言いました。私の監房にやってきた人たちは急に心配になり、中共と警察を罵倒しました。私は「みなさん心配しないでください、でも出所したらもうけんかしてはいけません。真・善・忍に基づいて良い人になり、常に『法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい』と念じることで、平安を保つことができます。それに、彼らが私たちを解放してくれなくても、彼らが言ったとおりになるとは限りません」と言いました。
次の日、2人の警官がやってきて「出てきて、列に並べ」と言いました。その時何人かの受刑者たちには、受刑者たちが解放されるということがわかりました。その受刑者たちは三退したので、福報を受けたのでした。受刑者たちは私に手を振って「ありがとうございました」と挨拶しました。私は師父が助けてくださったのだということを知り、深く師父に感謝申し上げました。きちんと列に並んでいると、警官が私の名前を呼んで「刑期満了だ、行け」と言いました。
拘置所から出ると、他の人の携帯電話を借りて、息子に「出てきたよ」と電話しました。息子は私の言葉を信じず、今警察署から電話があり警察署に行って1500元を払えと言われた、と言いました。翌日警察が私を迎えに来てお金を払うまで私は出してもらえない、ということでした。私は「彼らの言うことは正しくない」と言うと、息子は「誰の言うことが正しいのですか?」と言いました。私は「私の師父のおっしゃるとおりになります」と言うと、息子は「それならよかった、1日早く出て来て、1500元も節約しました」と言いました。
(続く)
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」