中国古典名作『封神演義』について
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 【明慧日本2023年11月9日】中国古典名作である『封神演義』は人々に愛される作品であり、実際その物語の内容は、著者が人々に伝えたいことの本質でもあります。

 この物語は、姜子牙(きょうしが)が周を助けて紂王(ちゅうおう、殷朝最後の王)を討つことを中心に展開され、表面的にはさまざまなストーリーが展開されていますが、著者が伝えたかった意図とは何でしょうか?

 第一、師を信じ、法を信じる意義:この物語は、次の出来事が描かれています。姜子牙の師父の弟弟子(注釈:姜子牙の師父は元始天尊であり、その弟弟子は通天教主)は弟子たちに、師父の許可なく山を下りることはしないよう忠告し、そうしないと災難に遭うと警告しました。弟子たちは頷いて約束しました。しかし、後に通天教主の弟子たちは皆、師父の許可を得ることをしないで山を降りたため、結局、皆災難に見舞われ、自分自身の身に危険を招いてしまい、千年の修行を失いました。土行孫と黄天化も師父の許可を得ずに山を降りて、同じく厄運に見舞われました。修煉者にとって、非常に重要なことは、師の言葉を聞くこと、師を信じ、法を信じることであり、師の忠告を聞かないとどのような結末が待っているかを考えるべきです。

 第二、師に敬意を払い、教義を尊重することの重要性:師を信じ、法を信じることが修煉者にとって非常に重要であるなら、師と法に対する敬意はさらに特別な意味を持ちます。小説の中には、次のようなエピソードがあります。紂王は非道で、自分の実の息子である殷洪と殷郊を殺そうとしましたが、広成子と赤精子は神通を使って二人を救い出し、彼らを弟子として受け入れました。数年後、広成子と赤精子は、殷洪と殷郊に姜子牙のもとで紂王を打倒し周を興す大事業を支えるため、山を下るよう命じました。しかし、この二人は約束を破って紂王に寝返りました。姜子牙は本来、彼らの生命を救った恩人であり師父の弟弟子でしたが、彼らは感謝の念を抱くどころか、姜子牙を殺そうとし、最終的には師父に対してさえ手を下すという冒涜的な罪を犯し、厳しい天罰に遭いました。ひとたび師と仰いだならば、一生自分の父親のように大事にすることを、すべての修煉者は厳粛に覚えておくべきです。

 第三、慈悲と寛容、無私無我の模範となる:姜子牙は周王朝を興し、紂王を打倒した後、神を封ずる(神をその役職に任命する)ために封神台に向かいました。その中で、彼を害しようとした師父の兄弟弟子、彼を置いて去った妻、そして感謝の念を持たずに彼に害を加えた師の甥弟子・姪弟子も神として封ずることになりました。姜子牙は慈悲の心を抱き、彼らの良い側面だけを見て、彼らが本来善良な性格であると認め、過去の過ちを気にしませんでした。最終的に、彼は多くの神々を封じましたが、彼は自分の神位を持っていませんでした。姜子牙は他人のことだけを考え、自分自身を考えなかったのです。修煉者は皆、このように振る舞うべきです。もちろん、ここで語られているのは、個人的な恩恵や対立を気にしない修煉者の態度です。天理に反する者は、最終的には天理の罰を受けることでしょう。

 第四、立場の選択:『封神演義』は実際には善悪の戦いを描いた物語です。神々はそれぞれ自分の立場を選びました。愚かな紂王と共にゆくことを選択した者は悪を選んだことになり、それは絶望的な道でした。一方、姜子牙と共にゆくことを選択した者は、正義を選び光明を選んだことになります。現在、宇宙の中では、最高の王が彼の弟子たちを率いて善悪の大戦を繰り広げており、宇宙の生命体は皆、選択を迫られています。正義を選ぶことは生き抜くことであり、悪を選ぶことは永遠の絶望につながります。人々にとっても、三退を行うことが生きる選択であり、それができなければ死を意味します。

 『封神演義』の著者である許仲琳は、早くから世界に対して、自分の立場を選ぶことが必要であり、その選択は個人の意思によるものだと語っていました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2013/9/10/279295.html)
 
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