中国法会|迫害初期の明慧記者としての経験(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年12月1日】中国共産党(以下、中共)は1999年7月20日、法輪大法への迫害を開始しました。迫害初期のある年、私は自宅でパソコンを組み立てました。パソコンを買った日は、親戚が何人か一緒に来ました。当時はパソコンがまだ普及しておらず、みんなとても新鮮そうでした。当時のパソコンのモニターは、まだ大きな箱型で、とても重かったのです。私たちは一日中苦労して、結局約5000元(当時は決して小さな金額ではなかった)をかけて、数人でこの巨大な装置(訳注:パソコンとモニター)を家に持ち帰りました。

 その後、偶然にもパソコンの技術に少し詳しい同修と連絡を取ることができました。私のところにパソコンがあると聞いて、その同修はとても喜んで私の住居にやって来ました。その同修は私のところに2泊3日滞在し、ずっとパソコンの前に座っていました。具体的に何をしていたのかはわかりませんでした。なぜなら、画面にはすべて大文字と小文字の英語と、私には理解できないコードが書かれていたからでした。最後に、同修は興奮して私に「明慧ネットにアクセスできるようになりました!」と告げました。こうして、私は明慧ネットにつながることができました。

 当時の私は、自分が今後、これほど長い間、明慧ネットと共に歩むことになるとは思ってもいませんでした。そして、明慧ネットの記者として、中国というこの人間の大舞台の一角で、中国の大法弟子が師父が法を正すための一翼を担う偉大な功績を文字によって記録することになるとは、夢にも思いませんでした。たとえそれが、わずかな断片であっても、明慧ネットに無数に結集したそれらの断片は、壮麗で雄大な篇章(訳注:文や文章の一つのまとまり)を構成しました。

 第20回明慧ネット中国法会に当たり、私は迫害初期の明慧ネット記者として過ごした、忘れられない経験を思い起こして書きました。偉大なる師父が私にこのような機会を与えてくださったことに、心から感謝申し上げます。

 明慧ネットにアクセスできるようになってから、私は師父の経文が発表されるとすぐに経文を見ることができ、同修に経文を伝えることができました。また、全国各地の大法弟子の交流文章や、大法弟子が邪悪な迫害を受けている報道文章を見ることもできました。当時、私は同修が迫害されている報道をあまり見ることができませんでした。迫害の残忍さは、私が耐えられる限界を超えていたからでした。私は、法輪功修煉者に対して、こんなにも邪悪で非人道的な迫害が加えられていることに、受け入れがたい気持ちでした。また、同修たちがそのような迫害の下で、どのように一分一秒を耐え抜いてきたのか、想像すらできませんでした。私は、選択的に逃げる(この種の記事を見ないようにする)以外に、心のバランスを保つ方法が見当たらないと感じていました。

 当時、明慧ネットには、各地の大法弟子が政府高官や地方の指導者、団体などに向けて書いた公開書簡が掲載されていました。これらの公開書簡では、法輪功の真相と迫害の不当さを訴えており、非常によく書かれていました。私たちの地域にも、正念がとても強い同修が何人かいました。彼らは、明慧ネットに掲載されている全国各地の大法弟子の公開書簡を参考にして、自分たちがどのようにして法輪功の修煉を始め、修煉した後でどのような変化があったのか、そして迫害を受けた状況などを、書面の形式で、周囲の親戚や友人、近所の人、上司や同僚などに、真相を伝えました。当時私は、数人の同修が書いた手書きの文章を読み、深く感動しました。

 私はある教師の同修と接点がありました。その同修は寡黙で、私は特に特別な印象はありませんでした。しかし、その同修が書いた体験を、私はずっと忘れられません。その同修は幼い頃から体が弱く、病気がちでした。また、家庭の事情も悲惨で、父親は早く亡くなり、母親と姉は長年病気に苦しんでいました。その同修が大学を卒業した時、もう一人の姉は家庭内暴力に耐えきれず、海に身を投げて自殺しました。その同修はどこに訴えても聞き入れてもらえませんでした。数年後、病気をわずらっていた母親と姉が、またもやその同修のもとから去っていきました。その同修は孤独になり絶望し、病気に苦しみました。ちょうどその時、その同修は幸運にも法輪大法に出会いました。法輪大法を修煉した後、その同修の身体はすぐに健康を取り戻しました。法輪大法の修煉の中で、人生の意味を理解し、人がなぜ苦しみや魔難を経験するのか、そして人はどのようにして人生の苦難に立ち向かうべきかを理解しました。その同修は過去の悲観と幻滅から楽観と明るさに変わりました。そして、その同修は「法輪大法が私に新しい命を与えてくださいました」と言いました。

 法輪大法の修煉を始めた後、教師であるこの同修は勤勉に働き、責任をもって任務を遂行し、上司から割り当てられた仕事は何でも引き受けました。その同修は過去に何度も先進的教師、優秀な学級担任に選ばれ、優秀教育賞を受賞しました。その同修は生徒を家族のように大切にし、自分の経済状況が良くなくても、困難な状況にある生徒にはできる限り援助を与えました。贈り物をされても、その同修はいつも丁寧に断りました。どうしても受け取ることを断れない場合は、現金化して返金するか、クラスの中の困難な学生に寄付しました。このような良い先生であったにもかかわらず、中共による法輪功への弾圧後、強制的に教職を解任され、学校の教室に立つことを禁じられました。この同修の教え子たちは、そのことを知ると、学校に連名で手紙を書き、この良い先生を辞めさせないように頼みました。この同修が最後に教室に入って、学生たちに別れを告げた時、学生たちは黒板に「○○先生、私たちはあなたを愛しています」と書きました。

 ここまで読んだ時、私は思わず涙が溢れてきました。私は、この同修をまるで新しく知ったかのように感じました。私は、身近にいる同修について、あまりよく知らなかったことに気づきました。大法を修煉する前、彼ら(訳注:身近にいる同修たち)が人生でどんな苦難を経験してきたのか、大法を修煉した後、彼らがどんなに素晴らしい人になったのか、そして迫害されて、彼らがどんな迫害を受けたのか、私は知りませんでした。この教師は、信仰を貫いたため、不当に拘留され、洗脳班に送られました。修煉を放棄しなかったため、降格され、授業を停止されました。その後、真相を広めたため、不当に有罪判決を受け、学校から解雇されました。

 私は「同修たちが自分の経験を書いた文章を、明慧ネットを通じて世界に伝えなければ、誰が、大法弟子である善良な人々が、中共の邪悪な迫害を受けていることを知ることができるだろうか?」と思いました。同修たちの平凡(訳注:同修も常人と同じ普通の人であること)で真実な修煉体験は、法輪大法が道徳を向上させ、心を浄化する大きな作用を証明しました。中共の嘘を打ち破り、人々に真実の法輪功と法輪功修煉者を見せました。

 同修たちの文章をタイプした後で、私たちは一緒に明慧ネットに送りました。当時の明慧ネットの投稿ページはとてもシンプルで、打った文章をダイアログ・ボックスに貼り付けて、送信をクリックするだけでした。一度に投稿できるのは一つの記事だけで、確かいくつかの認証コードを入力する必要があったと思います(時間が経ちすぎて、正確には覚えていない)。

 私が最も印象に残っているのは、送信の過程で、数人の同修たちが頭を寄せ合って、目をパソコンの画面に釘付けにして、送信が成功した後に現れる金色の小さな蓮の花を、心待ちにしていたことでした。「送信成功」と表示され、小さな蓮の花が表示されると、皆は長いため息をつき、喜んで次のことに取り組みました。もし成功しなかったとしても、皆は落胆する暇もなく、また元のページに戻り、もう一度投稿をやり直しました。そして、成功するまで続けました。当時の私は、パソコンの前でマウスを操作する人(訳注:明慧ネットに文章を投稿する人)でした。そのため、よくみんなに囲まれていました。私の心はいつも温かさと安心感に包まれているような気がしていました。迫害がどれほど深刻であっても、明慧ネットは私たちを一つにまとめてくれました。明慧ネットは、私たちが送った文章を受け取った後、すぐに掲載しました。

 この数人の同修(訳注:前段落の冒頭に出てくる「数人の同修」)の推進と支援により、私たちの地区の同修たちも、次々と、法輪大法修煉の真実の状況を伝え、中共の迫害を暴露し、堂々と法輪功の真相を伝えるべきだと気づき始めました。当時、私は、タイプ、送信、迫害の報道の執筆、そして同修の迫害の体験の執筆を支援し始めました。すでに書かれた文章であれば、私がタイプと送信を担当しました。これは、比較的簡単な作業でした。比較的複雑なのは、迫害のニュースや報道を書くことでした。

 当時、情報は口コミで伝わるのが基本で、内容はほとんど「ある大法弟子が不当に逮捕された」というものでした。情報と言っても、中には同修の名前しか書かれていないものもあり、名前すら書かれていないものもありました。日時も正確ではなく、大体何日か、場所も大体どの地域かしかわかりませんでした。最大の難しさは、迫害を受ける同修は多いが、迫害のニュースは少ないということでした。加えて、私が知っている同修が少ないことも、迫害情報を正確に、完全に収集するのが難しい理由でした。当時は、師父のご加持と同修たちの助けによって乗り越えることができたと言えます。同修は別の同修を探し、また探し、さらに探し、幾度も困難を乗り越え、最後には基本的な情報をより完全なものとして手に入れました。

 ある同修は、情報を頭に入れておいて、会った時に口頭で伝えました。しかし、その時は、情報にまとまりがなく、私は聞きながらメモし、さらに、重要な問題について、同修に再確認することが必要なこともありました。さまざまな困難があるにもかかわらず、私は、情報の内容を明確に書き、言葉は客観的で正確なものにすることを心がけました。そうすることで、明慧の同修が情報を受け取った後、修正に時間を取られることを防ぐことができました。

 師父のご加持によって、私の理解能力と文字の表現能力は日々向上しました。ある同修は口頭で、ある同修は他の同修を介して、情報を届けてきました。同修が話す時は、話が飛び飛びで、しかも、無駄な情報がたくさん含まれていても、私は、主要な情報を抽出することができました。次第に、私は、乱雑な情報の中から、有用な情報を迅速に抽出できるようになっただけでなく、情報の重要な要素について、同修にいくつかの質問をするようになり、同修が答えた後、情報をより正確で完全なものにすることができるようになりました。

 みんなが一緒に向上するにつれて、徐々に同修たちから届く情報もより完全で正確なものになってきました。同修たちから届く情報は小さなものですが、明慧ネットに公開されると、大きな影響力がありました。私たちは、悪人が暴露された後、中共が明らかに恐れていると感じました。さらに、中国国内と海外で同修たちが共同で声援と救援活動を行っているおかげで、悪人たちは悪行を大きく減らし、大法弟子を野蛮に迫害しようとしなくなりました。また、別の空間の邪悪も、暴露によって大量に解体され、私たちは皆、大きな圧力から解放されました。

 ある時に同修が折りたたんだ小さな紙切れを渡してきました。受け取った時は、同修が落とさないように手やポケットに入れていたために汗で濡れて少し湿っていました。紙切れを左右に何度もひっくり返して、ようやく開くことができました。開いてみると、紙は縦横に折り目がついていて、誰なのか名前もわからない同修の筆跡で、報道すべき基本的な状況が書かれていました。しかし、その間(訳注:1999年から現在まで)、このため(訳注:迫害を終わらせるため)に奔走する同修がどれほどいたのかは正確にはわかりませんでした。当時は、経済状況は一般的にあまり良くなく、公共交通機関も少なく、多くの場合、歩いたり自転車に乗ったりして移動しなければなりませんでした。それはとても辛いことでしたが、みんなとても熱心でした。

 考えてみてください。もし、こんなに多くの同修の共同の努力がなかったら、私たちは、この迫害の重要な情報を明慧ネットにどのように伝えることができたでしょうか? 名前を知らない同修たちも、中国の明慧ネットの記者ではないでしょうか?

 (続く)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/11/6/467815.html)
 
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