迫害されて障害になった車洪飛さんが立ち上がった
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 【明慧日本2023年12月1日】中国遼寧省営口市に住む法輪功学習者であり、中学の英語教師である車洪飛さんは、真・善・忍の信仰を堅持し、生徒たちに法輪功迫害の真実を伝えたとして、8回も仕事を失うことを強いられ、5回中国共産党の警察に理不尽な拘束や拘禁を受けた。そして、不当に労働教養所に1年間拘禁され、7年の実刑判決を言い渡された。拘禁中、車さんはさまざまな残酷な拷問に遭い、一時は刑務所で生命の危機に瀕したこともある。

 10年前、車さんが刑を終えたとき、全身の筋肉が縮んで動けなくなり、不整脈で、胃から出血し、皮膚と骨しか残っていないほど痩せ細り、さらに記憶力も失ってしまった。

'车洪飞当年被迫害致残照片。'

迫害された当時の車洪飛さん

 車さんは2013年に出所した後、地元の中国共産党の役人からの嫌がらせを頻繁に受けていた。特に近年、中共は法輪功学習者に対して「ゼロ政策」を実施しており、警官らは車さんの家に頻繁に押し入り、さまざまな害を与えている。しかし、法輪大法への堅固な信念により、車さんは頑強に生き抜き、再び立ち上がった! 今では、車さんは正々堂々と生活し、働き、毎日返本帰真の道を歩んでいる。

 これは、法輪大法が修煉者の身に示したもう一つの奇跡である!

 車洪飛さんが受けた迫害の経歴 鮁

 車さんは今年53歳で、遼寧省営口市ハツ()魚圏区紅旗鎮の住民であり、英語教師である。かつては営口市紅旗中学校で教鞭をとり、その後、熊岳鎮高校に雇われた。1998年から車さんは法輪功の修煉を始め、これにより心身に巨大な変化が起き、酒や麻雀などの悪い習慣を断ち、何年も悩まされていた胃腸の病気も治った。英語教師として、車さんは一貫して法輪大法の真・善・忍の基準に従って実践し、地元で良い評判を築いていた。

 1999年7月以降、中国共産党が法輪大法に対する迫害を始めた後、車さんは絶えず迫害を受けていた。2001年、営口市紅旗中学校で全校の教職員と生徒は、大法に反対する署名を強制されたが、車さんは署名を拒否し、逆に法輪功の素晴らしさを伝えた。そのため、地元の派出所の警官らに連行され、盖州市留置場に拘禁された。留置場で、凶悪犯による暴行やライターの火で顎を焼かれる拷問を受けた。その後、車さんは営口労働教育所に不当に収容され、5カ月後に結核を患って帰宅することになった。

 2004年7月下旬、熊岳鎮高校で教職に就いていた車さんは現地の警察によって連行され、ハツ魚圏区留置場に拘禁され、断食抗議による反迫害活動の後、20日後に解放された。その後、車さんは紅旗鎮中学校と熊岳城高校で不当に公職を解雇され、熊岳城鎮でアパートを借り、数人の生徒に英語の補習をして生計を立てていた。

 2005年7月12日、車さんは熊岳城高校の学生に法輪功迫害の実態を話したことで、学校に知られ、警備員に連行され、服を脱がされて酷く殴打され、その後、熊岳城公安局に連行された。警官は車さんを虎の椅子に縛りつけ、拷問を加え、冷水をかけた後、ハツ魚圏区留置場に拘禁された。車さんは13日間の断食抗議の後、ようやく家に戻ることができた。車さんはハツ魚圏地域で英語教育の仕事を従事し、家族を支えている。

酷刑演示:老虎凳

拷問のイメージ図:虎の椅子

 2005年10月末のある日、車さんは紅旗鎮派出所の警官に「話し合いに来るように」と誘われ、結果としてその夜、午後8時過ぎに留置場に入れられた。車さんは8日間断食し、「裁判待ち」という形で一時解放された。

 2006年2月、車さんは瀋陽于洪区の私立高校で英語を教えることになったが、学生たちに法輪功迫害の実態を伝えたとして校長に通報され、現地派出所の警官によって連行され、留置場に拘禁された。その後、車さんは7年の実刑判決を受けた。しかし、体調が悪く合格しなかったため大連刑務所に受け入れられず、ハツ魚圏区留置場に戻された。留置場では、悪質な警官の指示により、囚人たちは何度も車さんを酷く殴った。車さんの命が危険にさらされ、病院に救急搬送された。ハツ魚圏区裁判所の人員は、病院に駆けつけ、車さんに判決書に拇印を押すように強要した後、家族に署名させて車さんを解放させた。ハツ魚圏区紀検委の書記は「これから車さんにどんな危険が迫っても、我々とは無関係であり、我々は一切の責任を負わない」と放言した。車さんは家族に引き取られた後、紅旗鎮派出所の警官らは24時間体制で車さんを監視し、夜でも隣にいた。9日後、車さんは監視員の注意を逃れて家を出て、深圳に向かった。

 2006年6月頃、車さんは深圳の警官に法輪功迫害の実態を話したことが原因で連行され、遼寧省営口市紅旗鎮派出所の警官によって連れ戻された。後に3年の刑を加えられ、大連刑務所に拘禁され、その後鞍山刑務所に移送された。車さんは刑務所で反迫害のために少なくとも8カ月以上断食したが、刑務官らに野蛮かつ虐待的な灌食を行われ、24時間手錠をかけられ、ベッドの上方に吊るされた。排尿の時は囚人らが手伝って尿を受け取った。車さんは結核が再発し、肺に大きな陰影が見られたが、鞍山刑務所はなおも釈放しなかった。車さんの生命が危険にさらされ、全身の筋肉が萎縮し、不整脈で、胃からの出血や深刻な貧血が起き、毎日点滴で生命を維持する状態になった。車さんは寝たきりで動けず、話すことや目を開ける力もなく、皮膚と骨しか残っていないほど痩せ細り、生命は危機に瀕していた。

 2007年12月27日、鞍山刑務所側は責任を逃れるため、車さんを大連刑務所に戻した。同月29日、家族は状況を知り、大連刑務所に行って解放を求めた。車さんの両親、義理の父母、そして妻と他の親戚は大連刑務所に4回も行ったが、刑務所側は様々な口実の手段で、言い逃れをした。車さんの生命が危険にさらされ、脳が記憶を失っていき、大連刑務所は2008年4月24日になって、家族が引き取ることを同意した。

 車さんが家に戻された際、最後の一息しか残っていなかった。幸いなことに、家族の世話によって生き延びることができた。しかし、車さんの体調はまだ回復しておらず、2012年1月11日に再び大連刑務所に連行された。当日の朝、大連刑務所の所長が一群の悪党とともに車さんの両親の家に乱入し、その中の一人が「私を知っている?」と車さんに尋ねた。車さんの記憶は戻っておらず、その人を見て「知らない」と答えた。その人は「私は刑務所の所長だ」と言った。その後、この一団の悪党は車さんを連行した。車さんの70歳以上の母親は、泣き叫びながら阻止しようとしたが、靴を引き裂かれた。そして、刑務官は車さんを強引に車に引きずり込み、連れ去った。

 2017年3月17日、身体が拷問で損傷を受けた車さんは、ようやく10年の冤罪に終止符を打ち、家に帰ることができた。しかし、地元の中共官僚はなおも彼を手放さず、頻繁に彼の家を訪れては嫌がらせを行っていた。近年、中共は法輪功学習者に対していわゆる「ゼロ政策」を実施しているため、警察らが学習者の家に度々押し寄せ、さまざまな損害を与えている。

 しかし、法輪功への固い信念が車さんを強く生かしている。車さんは一般の人が耐え難い痛みに耐え、親や家族のサポートが彼にとって困難を克服する力となっており、再び立ち上がっている! 今日、彼は堂々とした生活を送り、毎日、返本帰真の道を歩んでいる。これは法輪大法が修煉者の身に示したもう一つの奇跡である!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/11/25/468603.html)
 
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