執着とは何かについて考える
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文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2024年1月6日】師父は『険悪を遠ざけよう』という経文で次のように説かれています。

 「一部の人は大法弟子の環境に身を置いたのですが、真に修めておらず大法に入ってきていません。肝心な時、いつも人心、人間の念、人間の情をもって物事を量っています」 

 この法を繰り返し読んでいるうちに、師父がおっしゃった「人心、人間の念、人間の情」とは何を意味しているのだろうかと疑問に思いました。それらは根本的に互いに異なるものでしょうか? 私たちが取り除く必要がある人間の執着とは一体何でしょうか? 執着はどこから来て、どのように発展するのでしょうか? なぜそれらは繰り返し現れるのでしょうか? 執着があることを知ってそれを取り除くことが簡単な場合と、それが非常に難しい場合があるのはなぜでしょうか?

 過去20年間の修煉の中で、私はさまざまな執着を取り除き続けましたが、20年後の今もまだたくさんの執着が現れ続けています。それらは、新しい執着である場合もあれば、さまざまな方法で現れる古い執着である場合もあります。一部は消去したと思ったのに、さらに強くなって戻ってきました。たとえば、快適さへの執着を考えてみましょう。私は以前、それを見つけて真剣に受け止め、それを取り除きました。しかし、欲望は無限であるかのように戻ってきました。

 執着と欲望が私を絶えず苦しめ、私の修煉状態はほとんど不安定でした。 法を学ぶとき、手放せないものは何もないようでした。しかし、本を置くとすぐに、私は普通の常人より酷くなり、ほんの小さなことでも私の心を動かしました。よくよく考えてみると、 執着とは具体的に何なのかが分っていませんでした。

 師父の以前の説法を学んだとき、私は突然師父が繰り返し説かれていた観念という概念に気づかされました。迫害が始まる前、師父はほぼすべての説法で人間の観念について言及されました。『轉法輪では、人間の観念についてさまざまな角度から繰り返し説かれています。

 「人間が最も放下し難いものは観念であり、甚だしい者は、偽りの理のために命を投げ出しても変えようとしませんが、この観念自体は 後天的に形成されたものです」 (『精進要旨』「誰のために存在するのか」)

 ほとんどの場合、私は自分の考えや行動が正しく、法に合致していると強く信じており、それに基づいて考え、行動し続けています。しかし、それらは本当に正しいのでしょうか? それらは本当の自分から来ているのでしょうか? 

 師父は説かれました、「皆さんが話している時、後天的に形成された観念、異なる時期に形成された観念と考えにある業力が入り混じった後に、果たしている作用を知っているでしょうか?」 (『米国東部法会での説法』)

 真実はほとんどの場合、私たちの言葉や行動は本当の自分ではなく、観念によってコントロールされているということです。長年の修煉の中で、私は執着を見つけては取り除いているように見えましたが、自分の人間的な観念には注意を払っていませんでした。私は冷たいものを食べると体内に水分が溜まると信じていました。長時間立っていると足がむくんでしまいました。人は特定の季節に眠くなったり疲れたりしやすくなります。人は疲れると休んだり眠ったりする必要があります。そして、ショックを受けたり恐怖を感じたりすると、落ち着くのが難しいのです。これらすべての人間の概念は私が学んだことや経験したことから来ており、それらは次第に私にとって事実となり基本となりました。

 修煉者として、私たちは常人よりも優れた行動をとるべきだと思います。私は自分を修煉者と呼んでいましたが、本当に修煉しているのか、修煉することの意味を理解していなかったのです。

 私はこれらの質問を自分にすることで、自分の持つ過去を疑ったり否定したりするつもりはありません。 「修煉とは何か」という根本的な問いで自分の内面を見つめ、もう一度確認する必要があると感じています。師父が「人間の執着」と言われたものは、私たちが人間社会の中で長い時間をかけて形成してきた何万もの考え方、概念、観念であり、執着と業力を育む根源であると考えられます。 

 中国語の「観念」(guan nian)の意味は、「観察して考える」ことです。これは文字通り、人は目が見えるので、見たものについて考え、その思考が観念を形成し、しばらくするとその観念が執着になることを意味します。ある人が、その人の能力によって何が見えるか決まる、と言っているのを聞いたことがあります。しかし、どんなに能力やレベルが高くても、 最終的に目で見たものを真実だと思い込んでしまうのです。

 「百聞は一見に如かず」で、見えたことを信じるのです。人は同じものに対して解釈が違うかもしれませんが、誰も人間の考え方から逃れることはできません。人は生きている限り、見たり聞いたりしたことに基づいて、見解、概念、イデオロギー、信念、経験、さらには強迫観念などを持っています。そしてそれに基づいて人や物事を判断します。これは人間の避けられない思考パターンなのです。修煉者として、私たちは観念を形成したり、観念で物事を判断したりしないようにしなければなりません。同時に、私たちが持っている概念を発見し、排除する必要があります。

 師父はこう説かれました。「形成された観念は人間の一生を阻害し、制御します。人間の観念は往々にして利己的であるか、または更に良くないものなので、また思想業力も形成され、人間はこうして業力に制御されてしまいます」 (『轉法輪巻二』 「佛性」)

 人は、意識的か無意識的かにかかわらず、自分の利益を守り、危害が加わらないように自分を守って人生を送ります。人間の執着や欲望は、自分の自己満足のためです。たとえば、快適さに対する私の執着を考えてみましょう。仕事であっても、物事は最小限の労力と苦痛で行われるべきだと私は信じています。同僚は、私が効率を重視しており、時間管理が上手だと言います。しかし、私は自分が怠け者で、トラブルを恐れ、快適さを望んでいることを知っていました。表面上は快適に暮らしていましたが、本当の自分は眠っていてそこにいないだけでした。

 この考え方で修煉を行うとしたら、私の修煉は不真面目になります。ある時、私は法輪大法のチラシを配りながら、山のように一カ所に置きました。私は自分自身に「大変なのでたくさん置いておけば、また戻って来なくもいい」と言い聞かせました。私は人々を救うことなど考えず、時間と労力を気にしていました。修煉は、法を実証し、人を済度する上で、どうすれば近道ができるでしょうか? 救われる命と修煉の向上のすべては、私たちが修煉を始めた瞬間に着実な一歩から生まれているのです。

 では、私の快適さへの執着はいつ形成され、私の観念はどのようにしてそのように発展したのでしょうか? 

 私が法を学んだ当初、一日に何回も外に出て法を学び、煉功することが面倒だとは思いませんでした。長時間外出しても焦ったり早く帰りたいと思うことはありませんでした。何が起こっても、私は他の修煉者たちに会って一緒にいられることがただ嬉しかったのです。快適さへの執着はドイツに移住してから現れました。 

 中国にいた頃のように定期的に法を学ぶ環境を失い、時間をうまく管理することができなくなりました。宿題や家事、その他自分のニーズを満たすために学びたいことや、やりたいことがあったため、時間が足りなくなってしまいました。徐々に、私はより効率的になり、目標を志向するようになりました。私が考えていたのは、より短い時間でより多くのことを達成することだけでした。効率的に行動するという考え方と、その結果得られる特典、そして積み上げてきた成功体験が私を変えました。私は何をするにも近道をする癖がつき、快適さへの執着はそこから生じました。効率的に節約した時間は法を勉強したり、煉功したり、大法の仕事をしたりするためには使われませんでした。休憩したり、小説を読んだり、ネットをしたりするなど、無意味なことに時間を費やしていました。最初は、リラックスしても大丈夫だと自分に言い聞かせる理由を考えました。その後、快適さを追求することは気にならなくなり、ただそれを満喫するようになりました。

 修煉は真剣であると同時に厳粛なものです。修煉者として、自分の人間的な側面を満喫する言い訳を常に探すべきではありません。 「私はまだ常人の中に住んでいて、人間的な部分もある」と言い訳して師父にお願いし、修煉の基準を下げていました。

 師父は説かれました。「そうであれば修煉の中で高い基準で自らを律するべきではないでしょうか?  そこに到達するまで常人の観念で自分を量り律するならば、あなたは永遠に人間のままです。 なぜなら到達してもしなくても自分では分からないのですから、高い基準で己を律しなければなりません」 (『ニュージーランド法会での説法』)

 師父は人間の観念を排除することの重要性を強調し、私たちが人間の表面を突破することを望んでおられました。師父は説かれました、「しかし後天の意識や観念を破ることは非常に難しく、なぜなら、これが修煉だからです」 (『轉法輪巻二』「佛性」) 

 本当の自分を見つけるためには、人間への執着を手放さなければなりません。

 以上が最近の法を学んだことからの理解です。法に反する部分があればご指摘ください。 

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/11/22/468482.html)
(English: https://en.minghui.org/html/articles/2023/12/18/213377.html)
 
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