重大な時に師父を呼ぶのも、師と法を信じる現れ
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2024年1月14日】1980年代に生まれた私は、他の地域で10年以上仕事をしながら一人で暮らしています。私の周りには修煉環境がないので、いつも明慧ネットを見ています。普段、修煉中の問題に遭遇した場合は、同修(母親)と交流しています。師父の按排のもと、母は私の修煉に対して多くの助言をしてくれ、私たちは法の中で共に向上しました。

 私は今の会社で8年ぐらい働いています。一人で会社の寮に住んでいて、2分ぐらいでオフィスに着きます。オフィスに同僚たちは殆どおらず、同僚たちは、用事があれば来るし、用事がなければ帰ります。大きなオフィスに私は殆ど一人でいて、仕事が終わって寮に戻っても私一人だけなのです。私はSNSもしていないし、テレビも映画も見ないのです。その時、私は毎日法は学んでいましたが、殆どの精力を試験勉強に使っていました。そのため、仕事以外は、勉強をして試験を受けることでした。

 ある期間、私は何回も虚しい、つまらない、寂しい、仕方がない、退屈だと感じたことがありました。職場に行っても一人だし、仕事が終わっても他の人を見ることがありません。たまに同僚と雑談する時もありますが、話が合わないのであまり雑談もせず、殆ど雑談をしないので、話せないと感じていました。このような感覚が8年も続きました。

 心の中は本末転倒で、いろんな気持ちが混ざり合って、言葉にできないほど辛い気持ちでした。ずっとこのような良くないものに監禁され、抜け出すことができないのです。何をしても興味が持てず、何をしても気分が乗らないのです。普段話す時も口を開けたくないし、精神状態は極めて消極的で、重苦しく、落ち込んでいました。それに、うまくいかないことに出くわしたら、もしくは小さなトラブル、問題でも、私の精神状態を崩壊させるようでした。

 法を学ぶ時、勉強できているようで、できていないように感じました。私は長い間一人で修めていて、また多くの時間を常人の勉強とテストに使っていて、自分が執着し追いかけていたテストが何回も合格できなかったので、自分と大法を疑い始めました。

 毎日なにがしか法を学んでいるのに、なぜ、このような虚しさ、寂しがる状態があるのか? このような良くない状態により、私はしょっちゅう一日中ご飯を食べず、魂を失ったかのように、ちっとも活力がなく、なんとか克服できるように努力はしましたが、このような辛い状態から抜け出せなかったのです。「師父は、いったい私を見守ってくださっているのか?」と思ったりもしました。

 資格の取得、勉強の問題について、私は真面目に努力し勉強してきましたが、何回も合格できませんでした。生活の焦慮(しょうりょ:苛立ちあせること)、キャリアアップの妨げ、精神生活の貧しさ、多くの不順さを感じ、人生のどん底に落ち、自分の努力は相応しい報いを得られていないと感じました。

 長い間、私のへそから不定期に汚い異物を排泄していました。これにより、私は困惑したり、悩んで、常に「こんなに時間が立っているのに何故まだこうなっているのか?」と思いました。

 法を学ぶ時、まるで教科書を読むように、読み慣れていて、学んでも感じることや得たものがなかったのです。特にこのような状態が長く続くようになったら、つまらないと感じ始め、重複して同じ本を読みたく無くなり、飽きてしまいました。

 自分が強烈に執着していたものが手に入らなかった時や、また普段の生活の中でつまらない、くだらないと感じた時、孤独で無力で、全てのことは自分で解決しなければならないので、私は全く生活の楽しみが無いと思っていました。思わず「師父は私を見守ってくださらないのか、私が修煉に精進していないから、師父は私を諦めたのでしょうか?」このような良くない状態は、かつて長い間私を干渉し、また不定期に現れてきて、その辛さは言葉では言い表すことが難しかったです。

 ある日、私がまたこのような抜け出せない状態に悩まされた時、頭の中に突然「あなたは、何故師父を呼ばないのか? 師父を呼んで!」という一念が入って来ました。私は少し元気になり、落ちついた後、泣きながら、心の中で「師父、弟子を助けていただけないでしょうか、弟子を加護していただけないでしょうか」と何十回、何百回も叫びました。頭が麻痺するぐらい叫んで、私は泣きながら横になり、寝ました。

 あんなに落ち着いて寝られたのは、久しぶりだったのです。目が覚めた後、まるで別世界にいるようで、パッと目の前が一新され、元気いっぱいになり、昔のように、はつらつとした生気が回復しました。お腹が空いて、ご飯を食べたくなり、以前のように、お腹が空いてもご飯を食べたくないということはありません。孤独、寂しさなど消極的な気分の概念も分からなくなり、あの時みたいに重く感じなくなりました。しかし、後から時々繰り返し現れて来ましたが、そのような良くない考えが浮かんで来たら、私はすぐに師父にご加護をお願いしました。すると、それらの悪い考えに従い、思い込みが続くことはなかったのです。

 それ以降、私の心はずいぶん穏やかになり、心も落ち着くようになりました。法を学ぶ時、師父は、法理を継続的に表してくださり、私は内から探し始めました。

 1.法を学ぶ時に心を込めて読んでおらず、法を学んでいても法を得ていなかったのです。執着を抱えながら法を学んでいて、いつも法を1回学んだら、1回、得るものがあるべきだと考えていて、そうでないと無駄だと考えてしまい、法を学ぶことに対して何かを求めていました。煉功する時も、考えが純粋ではなく、煉功した後、心の中では「今日は煉功をした、今日は無駄に過ごしていない」と功に対して何かを求めました。

 2.このような強い執着心が、旧勢力に隙を与え、ますます執着心を強化していることだと悟りました。当時、他の空間のさまざまなよくない悪者、思想業力の干渉を自分は気にしていませんでした。しかし、困惑していて、正念を発する回数も少ないし、徐々に彼らに生存空間を与えてしまい、だんだん深刻になりました。

 3.根本的に師父と法を信じてはおらず、良いことが得られたら心から喜び、師父がくださったのだと思いました。しかし、うまく行かないことが有ると、人心が揺れてしまい、自分を修煉者として認識することができず、気にもしませんでした。小さい事も修めず、ある良くない考えが現れたら、法で正すことを知らず、よくないものに沿って考えてしまい、理解できない場合は放置していました。少しずつ、小さいものが大きくなり、よくない物質もどんどん溜まってきて、自分が耐えられなくなり、正念も不足してきて、法を思い出すこともできませんでした。

 4.資格が取れた後の名と利に執着し、また「私は努力した、得るのは当然だ」という考えで、自分のために自分が努力したのだから当たり前だと思っていました。実は名、利、情を放下したくなかったのです。自分はたくさんのことをしたと思い込んでいましたが、勉強の過程の中では、心の中ではまじめに知識を学ばず、頭の中では「私は合格すべきだ、そうじゃないと私の努力は無駄になる」と思っていました。

 5.ある時は、自分は人よりも優れているのだと見做し、自分は能力に優れ、一人であれらの多くの苦労に耐えられたと思っていて、自分を第一にしました。

 6.とても強い貪欲があり、他人の功績を横取りし、複数の資格を取れたのは、自分が努力した後の必然的な結果だと思っていました。また、ますます欲張りになり、また複数の資格を取ろうとしました。資格が取れなかったら、喪失感が生まれ、大法さえも疑い始め、法を学ぶことに興味を無くしていました。

 7.自分のことは自分で按排し、立て続けに計画を作成し、物事は自分の按排に従い進むと思っていました。もし自分の願い通りに進まなかったら、人心が現れてきて、さまざまな疑いが生まれてきました。

 8.恩義に感謝することが分からず、満足せず、人、物事を見る時、ネガティブな考えがポジティブな考えより大きかったです。

 今回の経験を経て、私は身にしみるほど以下のことを悟りました。

 1.大法弟子として、私の人生は師父が按排してくださり、全ては自然に任せるべきです。私が得るべきものは自然に私のものになります。得るべきではないものは、どうあっても得られないのです。得るものがあれば、失うものがあります。師父が見守ってくださっているので、私は師父と法を信じるべきで、師父の按排は一番良いということを信じるべきです。

 2.修煉の中、出会った全ての良いことは、師父がくださった福で、同時に歓喜心があってはならず、師父に感謝すべきです。遭遇した全ての気に食わないこと、悩み、矛盾、悪いこと等は、師父が慈悲で、私が修煉の中で、人心、執着を取り除いて自分の本当の家に戻るために按排してくださったものです。これらのうまくいかないことは、自分の生生世世の業力によるもので、全てには因果関係があるものです。

 3.修煉に対して真剣になるべきで、人のものを掴んで手放せないまま、神のことも掴んで手放せないのはだめで、根本的に大法に同化すべきです。私たちは、命で結んだ誓約、師父への約束を守るべきです。三界に降りたのは、師父を手伝って法を正すためであれば、使命を持って来たのであれば、使命を果たしてから戻るべきです。二股を掛けるべきではなく、唯一の正しい選択を下すべきで、正法時期の合格できる大法弟子になり、限られた時間で誓約を実現すべきです。人生は短く、生老病死、人生における喜び、悲しみ、出会いと別れは、一瞬で消えるもので、世の中は、夢のまた夢で、修煉こそ一番真実なものです。

 4.新年や節句のたびに、師父へのグリーティングカードと賀詞は、スローガンではなく、本当に実現しなければならないし、できるだけやらなければいけません。師父は、私たちを救度するために、無数の苦労に耐えてくださいました。私たちは、ほんの少し耐えれば良いので、どうということはありません!

 5.大法は世の中の全てのものを創り上げ、無数の佛、道、神を創造しました。無数の命は、大法が切り開き、私たちの全ては大法がくださいました。どんな時も大法と師父は一番大事です。私たちは自分では何もできません。師父と大法の救済がないと、私たちは地獄にいました。私たちは仮に能力を持っているとしても、大法がくださった能力で、全ては大法から来ているので、恩義を感じるべきです。

 6.修煉者の考えで常人の考えを変えるべきです。修煉者として、物事に会ったら内心から探すことはもっとも基本的な素質で、必ず備えるべきです。良いことに会っても、悪いことに遭っても、全て内心から探すべきで、特に目立たないことでも、見つかりにくい人心、常人の心も一緒に、すぐに法で正すべきで、常に修煉者の状態の中に身を置くべきです。最後になる時こそ、真面目で真剣に修煉のことを考えるべきで、自分に対して段々厳しくし、人心、人の考え、人の情を取り除くべきです。

 7.どんな時も、無条件で師父と法を信じて、重要な時に師父を呼ぶのも師父と法を信じる現れになります。

 危険な時、もしくは関を乗り越えられない場合、心の中に師父がいらっしゃれば、師父は弟子の悪い業力を取り除いてくださいます。何度も何度も、師父が守ってくださり、師父に救われ、師父は弟子の罪を取り除いてくださり、弟子を何回も生まれ変わらせてくださいました。

 私は、大法は本当に大きいと感じました。法は全てを溶かします! 今回の大法の洗礼を経て、全ての良くない物質は、雲散霧消しました。心の落ち着き、幸せ、和気藹々は、大法がくださったのです。本当に「法は一切の執着を打破することができ」『精進要旨(二)』「妨害を排除せよ」の通りです。

 師父が弟子のために按排してくださったのは、全て良いものです。現在の仕事環境は、師父が私の修煉のために按排してくださいました。仕事中、私は多数の同僚に真相を伝えました。自分の言葉と行動に気を付け、大法の名誉に泥を塗らないようにしたのは、まず大法のことを考えるからです。生活または仕事中、一日中話さず、雑談をしなくても、心の中は充実していて楽しいです。大法は、私に多くの知恵をくださり、既に6つの資格が取れました。ある時知らないうちに、無事に省と国が管理している専門家のデータベースに加入でき、審議の専門家になり、抽出の回数は、他の人より多いです。師父がくださった全てに感謝いたします!

 最近、私は「修煉は本当に幸せだ、苦労してもうれしい」と良く思います。それは、私は師父が見守ってくださり、宇宙の大法により鍛煉されるからです。大法を得られるのはどんなに聖恩だろうか! 永遠の幸せです!

 私は師父の無量の慈悲を切実に感じました。心の中に、どんな時も師父と大法を第一位にすれば、師父は永遠に弟子のそばにいらっしゃいます! しかし、自分はどれぐらいのことができるだろう? 師父は弟子の純粋な心のみ見ていらっしゃいます。私たちは心から修煉したいと思い、また法で自分を厳しく正せば、全てのことは、師父が按排して下さり、大法が成功させて下さいます。大法は根本です。弟子の命は、全て大法が授けて下さったのです。永遠に師父と大法の無上の恩恵に報いることができません。

 以上は、修煉中に私が現段階で感じたことです、同修の慈悲なるご指摘をお願い致します。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/11/11/468031.html)
 
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