文/寧夏回族自治区の大法弟子
【明慧日本2024年1月22日】昨年、ある出来事がありました。給与が支給された後、私と2人の同僚は他の人よりも約1000元(約2万円)少ないことがわかりました。これは工場内ではとても大きな出来事であり、私と同僚2人は非常に驚き、腹が立ちました。チームリーダーに聞いたところ、今年から工場全体で採点制度が導入され、低い評価を受けた可能性があると言いました。私は、「これについてなぜ誰も知らないのか」「なぜ私たちに最低評価を付けたのか」と尋ねました。すると正、副チームリーダーは言葉を濁し、自分たちが評価したわけではなく、他の誰かが評価したかも知れないと言い張り、「あなたに最低評価を付けるわけがない」と、もっともらしく言いました。私はチーム内で最も経験があり、技術が優れ、信頼できる存在だとずっと思っていましたが、結局は最低評価を付けられました。怒り心頭で上司に相談しましたが、上司もはっきりしたことは言わず、一度はこの人が、また別の時にはあの人が、と評価した可能性があると言って責任を転嫁しました。最後にマネージャーに相談したところ、マネージャーは採点の記録を取り出して、チームリーダーが評価したと言いました。
そして、具体的な状況についてはよく分からないし、減額は既に3カ月間実施されたので、今更変更(四半期単位で給与が減額される)はできないが、その代わりに、将来の給与の支給で調整すると話しました。また、会社の制度が合理的でないことを指摘し、多くの人が採点システムに反対しているとも言いました。さらに、担当の責任者に電話で叱責の口調で、関連する文書や評価の状況をグループ内で公開し、隠さずに全員に詳細を共有するように求めました。
マネージャーの態度と行動は比較的良好だったので、私の怒りはだいぶ解消されました。マネージャーのオフィスを出て、私たちは何が起こっているのかを理解しました。これははっきりとしたことで、2人の正、副チームリーダーと担当の責任者が共謀してこの問題を引き起こしたのでした。現在、工場内の人間関係は非常に複雑で、お世辞や、私利私欲、黒白を転倒するなどがはびこり、正直で真摯な人は居場所がありません。社会の現状がこのようになっているからです。最も腹立たしいのは、この正のチームリーダーで、彼が10年前に失業した時は、私が親切にこの職場に呼び寄せて彼の職を手配し、会社のオペレーター資格を無料で手に入れる機会を彼に譲り、さらに1年後にはチームリーダーの座まで譲りました。私は一貫して彼を助けてきましたが、逆に彼はこのように私に対して行動し、技術が最も低くて働きも最も悪い人として、最低の評価を与えたのでした。私はこの件で、長い間怒っていたので、食欲もなく、よく眠ることもできませんでした。
当然、上記はすべて人間の考えであり、人間の状態です。今、人類社会は成、住、壞、滅の最後の段階に差し掛かっています。修煉者として私たちがはっきりと理解しなければならないのは、修煉というのは、これらの人間の思考、観念、執着を全て取り除くことです。この出来事で表れたのは、常人の低俗で汚らわしい醜悪な思考行動です。私たち修煉者は、彼らと同じように振る舞ってはならず、内に向けて見つめ、内に向けて修煉し、自分自身を修めるべきです。社会や他人を修めることではありません。
内に向けることで、露呈した問題が非常に大きく、名誉や利益を求める多くの執着心があることがわかりました。これらの年月、自分の修煉はそこそこできていると思っていましたが、今回の出来事を振り返ると、そうではないことに気づきました。名誉や利益についてはまだ修煉がよくできていませんでした。まったく淡々としておらず、完全に放棄していませんでした。この問題が発生したとき、最初に考えたのは、「他の人よりも1000元少なかった」ということでした。これはお金や利益に対する執着心が完全になくなっていないことを示していたのでした。
以前、私は同僚に真相を伝えるときはこのように話していました。「私たち法輪功修煉者は、たばこを吸わない、酒を飲まない、麻雀を打たない、病気にならないし、注射も打たず、薬も飲まない。これらを合わせると、あなたたちが毎月2000元多くもらっても、私たちにはかなわないかもしれない。これが法を修煉する人の外見上の利点なのです!」と。しかし、私は今、1000元のために怒りっぱなしなのです。これは普通の人と同じではありませんか?! 私たち修煉者は食べるものも、着るものも足りており、病気もなく、災難に会うこともないので、お金を求める必要はありません。私たちが求めるのは心性の向上、次元の向上であり、お金は生活に支障がないくらい持っていれば十分なのです。お金や利益には淡々とし、放棄する必要があります。
そしてもう一つは、この出来事の後に「自分の名誉が傷ついた」と感じました。私は半生でどの会社でも最も優れた技術者であり、人にたくさん教え、不正行為はせず、人を欺かず、常に評判が良い善良な人でした。しかし、今回は彼らに最下位にランク付けされたのです。このギャップはあまりにも大きいものでした。半生の実績や名誉は、一瞬にして抹消されるのではないかと思うと納得できませんでした。しかし、修煉者としての視点から考えると、「これは師父が、私の名声に対する執着心を試すための出来事ではないか」と、すぐに理解できました。修煉者として、これらの一般の人の名声を求める必要があるでしょうか? これは次元の向上や功徳の向上に役立つものでしょうか? これらの名声は、私たち修煉者にとっては何の意味もありません。一般の人が私を良く評価するか、悪く評価するかは気にするものではないのです。それは神が仰ったことでも、師父が仰ったことでもありません。私たちが追求すべきことは、師父の要求に合致し、法の基準に合致することであり、功と次元を伸ばすことです。これらの常人の虚のものを求める必要はありません。名声を求める心を断然に取り除くべきです。
そして、この出来事から人の情への執着が現れました。私は常に周りの人たちと仲良くしていました。しかし今回は、私が心を込めて助けた人が、私に対してこのように振る舞うのに対して平然としていられませんでした。私たちは人の感情を頼りにしすぎないほうが良いと知っています。特に今は人類の最も良くない時期であり、人々は私利私欲のために本音ではないことをしています。なぜこれらの低俗で汚らわしい人間の感情にこだわる必要があるのでしょうか? 彼らは本来、堕落の中で破滅の縁にあるので、かわいそうな存在です。私たちが済度すべき対象です。なぜ彼らの良し悪し、善悪の感情を気にする必要があるのでしょうか? 必要ありません、本当に必要ありません。早くこの人世の感情から解放されましょう!
このことを通して、私は真の修煉の不思議さを理解しました。修煉者が持つべきでない思考、行動、感情を認識し、ためらいなくそれを手放し、取り除いた後、心境はかつてないほど明るく爽やかになりました。何もかも忘れ去り、怒りや憤りも一切が消え、その代わりに微妙な喜びが湧き上がりました。心の中で本当に彼らに感謝しなければなりません。彼らが私に心を削るような出来事を引き起こしてくれなかったら、名誉や利益に執着する心をいつ捨てることができたでしょうか。本当に彼らに感謝します。これを認識した後、脚を組んで座禅しても足が痛くなくなり、数年にわたる歯痛や頭痛も消え去りました。
これらの修煉の経験を書いて同修のみなさんと共有しました。何か法に反する点があれば慈悲深くご指摘ください。