ミラレパの師父は家を建てることを教えているのではありません
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年1月26日】

 チベット仏教の白教はミラレパ仏を本尊としており、ミラレパ仏の修煉の話はとても感動的です。

 ミラレパの師父はミラレパに、とても険しい山に石造りの家を建てさせました。基材となる石は、動物を利用して運ぶことができず、ミラレパは自ら運ばなければならず、とても大変な仕事でした。ミラレパが家を建て終わると、師父は気が変わり、何度も家を壊して建て直させました。

 ミラレパはこの世に何のために来たのか、しっかりわかっていました。師父の弟子入りのためであり、修煉するために来たのです。修煉とは六道輪廻の範囲を超えることであり、人間の中で良い暮らしをするためではありません。弟子入りを果たすために、ミラレパは人間の苦を舐めることを全く気にしませんでした。

  ミラレパは心から修煉したいと思っており、真に修煉するには、必ず師父が必要です。迷いの中、夢の中にいる人が目覚めようとして、夢に頼ろうとしても、それは不可能であり、寝言を言っているようなものです。悟りを開いた覚者しか人々を救うことができないのです。

 ミラレパは師父が何をしているのかを知っており、師父が偉大なる覚者であることも知っていました。なぜなら、ミラレパは覚者の法理と人が済度される現実を目の当たりにして、自ら判断を下し、固く信じているからです。名声や富を盲目に追い求める社会で、どうして修煉ができるのでしょうか。それに、修煉とは悟りを開くことであり、その一歩一歩は自ら悟らなければなりません。盲目に追随しようとしてもできないことです。ミラレパは何年も師を探し当て、複数の有名なラマ僧から学んでいました。彼自身も功能を持っています。今まで出会ったものが究極の解脱を果たせないことがわかって、離れることと探し求めることを繰り返し、やっと真に自分を済度できる師に出会えたのです。

 ミラレパが済度してくださる師との出会いは、苦海の長い夜に光が見えたようなもので、弟子となるこの機会をどうしても手放すわけにはいかず、いくら苦を舐めてもしっかりと付いていこうと決心しました。それこそが光であり、苦渋の暗い海をさまよう命が何世にもわたって探し求めてきた光なのです。その光は、誰か特定の人を照らしているわけではなく、闇を手放そうとせず、光を追い求めようとしない人をも照らしています。

 ミラレパはすべての困難を試練と見なし、弟子入りができるなら、いかなる試練も突破しなければならないと心に決めました。困難や苦しみにおいて、彼を苦しませたのは、決して師父が楽にさせてくれないことではなく、試練を乗り越えられない自分、罪深き自分が師に本当の弟子として認めてもらえないことでした。

 ミラレパは師父の按排を理解できませんでしたが、ミラレパはしっかりと言われるままに行いました。いくら苦を舐めても、他人からどう噂されていようと、ミラレパは決して師父に文句を言いませんでした。修煉は他人事ではなく、まさに修煉したい自分自身のことです。あなたに承認される資格はあるのでしょうか? 師父と呼べば、弟子として扱ってもらえるのでしょうか? あなたに弟子になる資格はあるのでしょうか?

 ミラレパは師父の段取りを知らず、弟子の立場からでは、師父の素晴らしい教えを理解することができません。実は、5回の取り壊しと建て直しの間、ミラレパの師父は、ミラレパの修煉の問題解決をする段取りをしていました。そのため、後にミラレパが修煉を終えた時、危害を加えようとする者たちは彼を傷つけることができません。なぜなら、師父がすでにミラレパの業力を消去し、解決してくださっていたからです。

 ミラレパは家を建てているとき、すでに、師父が彼の修煉を段取りしているのを知らなかったのです。師父はそれを彼に伝えることはできませんでした。もし伝えたら、それは彼の(業力消去の)カウントになりませんし、その目的も果たせないでしょう。師は弟子のために無条件で多くのことをすることができますが、弟子たちは確固たる信念を持たなければならず、誰も修煉を取って代わることはできません。もし、本人が修煉をしたくなければ、すべては台無しです。

 ミラレパは本当に修煉したいと思い、日々、師父の言われたことを忠実に行い続けると同時に、慈悲深い師父もまた、彼のために丹念にすべてを段取りしてあげて、彼を済度しています。人を救い済度することは名声を求めず、師父が彼のためにしたことは一切、彼に言わなかったのです。師父は、弟子に対し言う必要はありませんし、一部のことを言うこともできません。

 師父のお膳立てのほとんどは最終的に目的を達成し、その後のミラレパの修煉にとって非常に良い土台となりました。しかし、周囲の人に干渉されたため、ミラレパの決心を揺るがせた部分もあります。これは誰のせいとも言えませんが、このような善意の心が、あとで、ミラレパに魔難を残したことは事実です。魔難の各段階では、それを乗り越えられるかどうかは未知数なので、一刻も早く消去させないと、後々トラブルになりかねません。したがって、より高い次元の修煉を、低い次元の人心で測ってはなりません。良いと思っている人の心も、実際やってみると、悪い行いになりかねません。

 家を5回建てたミラレパの家づくりの腕前は、師父を上回っているでしょう。しかし、これは何の意味も成しません。家を建てるのはあくまで形式的なことで、ミラレパは家を建てることを学びに来たわけではなく、彼の師父もそれを教えていたわけでもありません。しかし、ミラレパは家を建てる過程で自分自身を修め、師父はこのような形で弟子を修煉させています。

 修煉の物語はそれぞれ異なり、今日に至っては、さらに多種多様なものとなっています。家を建てる過程で修煉することもあれば、メディアに携わる過程で修煉することもあるし、あらゆる仕事や生活様式の中で修煉することができます。あらゆる環境での弟子たちは自らの行っていることで長く、多く、大きく、有名になり、お金持ちになったとしても何の意味もなさないのです。

 ミラレパのように修煉するためにここにいるのであって、シェフやアナウンスを学ぶためにここにいるのではありません。師父は弟子たちの修煉をこのような形にしていますが、それは弟子たちを修煉させているのであって、弟子たちに生き方を教えることではありません。

 ミラレパがしっかりと家を建てていたように、自分の修煉も含まれているため、弟子は当然、師父の按排に従ってしっかり行います。しかし、自分がその中で修煉していることを知らなければなりません。もちろん、うまくいったことにはさまざまな収穫がありますが、修煉こそが本当に達成したい最終目的であり、他のすべては修煉における便宜的なものに過ぎず、訓練させる道具とゲームのキャラクターにすぎません。

 一度これらのゲームにはまり込んでしまうと、さらにはよくできたことに執着し、または中毒になり、ひいては師父の言うことも聞かなくなり、修煉に対して疎かになってしまえば、幾代もの生命と引き換えに得た大切な修煉の機縁を失うことになるでしょう。

 俗世間で行うべきことを行い、心は俗世間にあらず、この迷いの中で全てに対し淡々としていられることこそ、修煉者のあるべき状態です。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/12/11/469162.html)
 
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