文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年1月30日】大法弟子の肉身がなくなることについて同修が共有した文章を読んだ後、私は亡くなった現地の同修のことを思い出さずにはいられませんでした(現在病業で苦しんでいる同修もいる)。これらの同修は、雨の日も晴れの日も関係なく真相(迫害の事実)を伝えに出かけ、大量の資料を配布したり、ステッカーを貼り付けたりするなど、非常に精進し、大法の活動に参加していました。中には、協調の同修、技術同修、あちこちに行って病業の同修を助けるために発正念をしていた同修、そして正念を持って何度も刑務所から抜け出した同修もいます。結局のところ、これらの同修は病業を乗り越えることができず、病業の前で孤独で無力感を感じ、正念をすべて失い、最後に、多くの後悔と疑問を抱えて亡くなりました。中の一部の同修は「なぜ、師父が自分の面倒を見て下さらないのでしょうか」とさえ不平を言いました。
師父はこのように説かれています。「皆さんもご存知のとおり、亡くなった学習者がいます。亡くなった人の中で圓満成就に至った人もいれば、わざと法を壊しに来た人もいます。ですから、私はこのことについて何の態度も示さず、何の話もしませんでした。しかしそのことの発生は、私たちの学習者にとっては一つの生死の試練だと私は思います。あなた自身に起こっていなくても、やはり自分自身に起こったように、あなたは絶対そういうふうに感じます。それはまさに生と死という瀬戸際の試練です。一人の人が生死を放下できなければ、絶対に圓満成就に至ることはありません」(『シンガポール法会での説法』)
師父の説法から、個別の学習者の死亡は私たち一人一人の鏡でもあることを理解するのは難しくありません。それは私たちに対する生と死の試練でもあります。しかも、非常に厳粛な問題です。この関をうまく乗り越えるにはどうすればよいでしょうか? まずは私自身の修煉状況から話しましょう。
迫害が始まった当初、私は人に頼らず、外に出かけて法を実証しました。当時、資料がなかったので、私は同修たちと話し合って、自分たちで大法についての文言を書き、貼り付けました。それらはすべて、電柱、橋、さらには交差点の監視塔などの最も目立つ場所に掲示しました。自分の行動範囲内であれば、どこにでも大法を実証し痕跡を残しました。その後、資料が手に入ったので、それぞれ大きさの異なるバッグに分けて入れ、各自が背負って戸別に配布しました。その後、法を実証することの進展に伴い、私たちは対面で真相を伝え、衆生を救い、三退を勧めて資料などを配布しました。自分が行ったことに対して、大きな達成感を感じ、これをやってこそ法を正す時期の大法弟子としての資格があると感じました。しかし、心を静めて法を学ぶという重要な部分は疎かになり、仕事を行うことが修煉とみなされ、法を学ぶことは単なる形式的なものになってしまいました。内に向けて探すことがわからなかったので、同修たちとよく争ったりして、衝突しました。煉功しても改善できないさまざまな身体的に良くない状態が現れたとき、ようやく自分に対して多くの疑問を感じました。
その後、ある同修の文章「九死に一生を得る」を読んだ後、私は法に基づいて修め、法の中で見つけなければならないと悟りました。それ以来、私は心を静めて法を学び、法に従って内に向けて探すようになりました。その結果、自分の仕事をする強い心、イライラしやすい心、人に言われたくない自我と強みという心、人の意見を聞けない心、外に向かって求める心などを持っていることが分かりました。
一定期間法を学び暗記し、法理を理解した後、私は自分の業力の根源を特定することができ、師父が私の代わりにその一部を負担して下さり、自分も少しを負担しなければなりません。その頑固な業力は、師父から与えられた宝の武器と功能を使って自らを浄化し、しっかりと消去し、そして体内に押し込まれた小さな黒い業力の塊が分散し、排出され、継続的に消去されます。最後に、業力が体に害を及ぼすことができなくなるまで絶えず追い出し、絶えず弱め続けます。そうすれば、旧勢力が私たちの肉体を引きずり出す理由はなくなります。したがって、法理を理解してこそ、あらゆる艱難をうまく克服することができます。 そうして初めて、私たちは旧勢力の按排を否定することができるのです。
この長年の修煉の中で、修煉がよくできて、病気の苦しみを全く感じ取ろうとしない大法弟子も多く、師父と法に対する信念は岩のように堅固です。私たちの学法チームには年配の女性学習者がいますが、彼女は師父と法を固く信じており、いくつかの病業や生死の試練を乗り越えてきました。ある日、同修は自宅で突然気を失って倒れ、同修の夫は驚いてすぐに救急車を呼ぼうとしましたが、つながりませんでした。夫は息子に電話をかけましたが、その時に同修はすでに意識を取り戻しました。夫が地面で自分を抱いているのを見て、夫を押しのけ、「起きて、私は元気です。トイレに行きたい」と言ったそうです。トイレに行くと、排便を失敗しているのが見えました。そのとき、息子も帰って来て、「お母さんは大丈夫? 病院に行くの?」と尋ねました。同修は「私は大丈夫! 行かないよ!」と答えました。そして同修はベッドで横になりました。同修は非常に落ち着いて、考えははっきりしていましたが、体は山に押さえつけられているように感じて、動くことができませんでした。同修は深い眠りに落ち、夢の中で家族の墓地に到着すると、穴を掘っている男がいて、「この穴はあなたのために掘っているよ」と言いました。同修は「あなたが入りなさい、私は衆生を連れて未来へ行かなければなりません」と言いました。これを言った後、同修は目を覚ましました。 同修の考えは非常に正しく、数日後には体は正常に戻りました。もし同修が黙認すれば、その結果は悲惨なものとなるでしょう。
最近、この同修は再び生死の関を乗り越えました。同修は突然腰痛に襲われ、横になると寝返りも打てなくなり、数日間座り続けなければならず、激痛に苦しみました。同修は、これがすべて仮相であり、私の三つのことに影響を与えてはいけないと思い、ゆっくりとベッドから降りて、壁につかまって階段を降り、小型電動三輪車に乗っていつものように外に出て真相を伝え、三退を勧めました。時には、腰の痛みを我慢しながらネット封鎖を突破して「明慧ラジオ」をダウンロードし、年配の同修たちがラジオを聞くことが遅れることはありませんでした。同修は「夢の中で、両手で蔓を掴んでいて、どんなに体が揺れても、私はその蔓を離さずに掴んでいました」と話しました。
この同修は別の夢の話をしました。同修は、自分が大きな車に座っているように感じましたが、途中で無意識に車から降りました。降りた後、同修は、急いで降りるべきではないと感じました。しかし、車は突然消えたので、彼女はそれを追いかけなければなりませんでした。そのとき、道の両側には、道の衣装を着て長く鋭い武器を持ったグループがいました。彼らは道をふさぎ、彼女の進行を遮りました。同修は「通らせてくれませんか? 私の師父が誰であるか知っていますか?」と大声で言った時、それらの人たちは怯え、パニックになってこう言いました。「すぐに彼女を通らせてあげなさい。彼女の師父を怒らせるわけにはいきません」。そして、一行はすぐに鋭利な武器をしまいました。
この同修は心の中に法があり、十分な正念を持っていることを示しています。誰も同修を動かすことができず、邪悪はそれを見て恐れます。
師父は「わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」(『轉法輪』)と説かれています。
修煉の中で、一部の同修は師父のこの段落の説法をはっきりと理解できず、師父が自分たちを守って下さり、多くの大法の仕事を行って人々を救ったのだから、自分たちはそれほど厳しく迫害されるべきではなく、病業に苦しむべきではないと考えていました。実はこれは人心、人間の念で師父と法を考えるということなのです。師父は正念を持っている大法弟子の面倒を見ておられます。
実際、師父は同修のどんな形の死亡も認められません。私たちの功法は生命双修の功法ですから、修煉しながら寿命を延ばすことができ、これは絶対です。師父は年齢に関係なく私たち一人一人に十分な時間を与えてくださり、私たちが前に進むよう背中を押してくださいました。したがって、私たちは法に基づいて修煉しなければならず、心の中に法があるからこそ、初めて修煉の方法を知ることができます。法を得れば得るほど、法は私たちを守って下さるのは確かです。
結び
魔難の中にいる同修は、急いで学法の質を向上させましょう! しっかりと法を学び、内に向けて心を修煉することに励み、師父とともに正々堂々と家に帰りましょう。
以上、私の現段階の認識ですが、間違っている点がありましたらご指摘ください。
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】