新しい学習者 法輪大法を修煉した体験
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2024年2月8日】私は2021年の初めに幸運にも法輪大法の修煉を始めることができました。師父のご慈悲に感謝申し上げます。ここで皆さんと自分の修煉体験を共有したいと思います。

 一、安逸心を克服し、家を出て早朝の集団煉功に参加する

 師父は、「集団で法を勉強し、集団で煉功することは私が皆さんに残したものです。迫害が極めて厳しい場合を除けば、中国大陸以外の他の地区はみな、このようにすべきです。これに従わない理由はありません。これは未来の人が法を得て修煉する問題に関わっています。ですから、集団で煉功し法を勉強することはなくてはいけないことです」(『各地での説法十四』「二〇一六年ニューヨーク法会での説法」)と説かれました。

 しかし、9日間セミナーで法輪功五式の功法の学習を終えた後、私はずっと家で煉功を続けていました。集団で煉功をしたくなかったからです。実は、自分の安逸心、快適さへの執着であることも、薄々気づいていました。しかし、それでも「毎日煉功を続けるだけなら、家で煉功すればいい。それに、集団で煉功する時よりも、学法の往復にかかる時間を節約できる」と言い訳をしました。

 ある日、階下の親戚の住人が、私が住んでいる共同住宅の玄関にメモを貼りました。それには「私たち階上の住民が、早朝に活動して家具を動かして別の住人の睡眠を妨げている」ということが書かれていました。すぐに私はとても怒りを感じました。「不当な扱いを受けたのだ、自分の修煉が他人に迷惑をかけている」と私は苦情を受けたことに、怒りと悔しさを感じました。親戚を通して、私は一生懸命説明しました。私はとても早く起きて煉功していましたが、ずっと同じ場所に立っていたり、座ったりしているので、音を出すことはありません。しかし、その住人は「どうしても音がする」と主張しました。親戚もその住人の主張を仕方なく私に伝えてきたのでした。少し後になってから、「もしかしたら、これは『私が他人のことを考えられるかどうか』を試されているのかもしれない。今後は、起床後の動作や煉功の音楽は、できるだけ静かにしよう。そして、本当に家具を動かしていないことを確認しよう」と考えました。その後、何度も説明した結果、住人は、古いアパートのせいで、他の階から音が聞こえている可能性があることを、しぶしぶ認めました。しかし、メモはそのまま貼ったままでした。2階の廊下にもう一枚貼ってあったので、すべての階の住人も、その住人が可哀想に思ったのです。そのため、皆が私に「朝早くから騒がないように」と言いました。

 「もしかしたら、師父が私に家を出て煉功に出かけるようにと悟らせてくださっているのかもしれない」ということを徐々に悟り始めました。このようなことがあってから、2022年12月の冬から、私はついに公園で早朝の煉功に参加するようになりました。

 寒い冬から真夏、そして現在の晩秋に至るまで、基本的に雨が降らない限り、私はいつも公園で早朝の煉功に参加し続けました。この期間中、多くの執着心を修めて取り除き、そして怠け癖を克服しました。最初は、もう少し寝ていたいとか、他の良くない不満や、眠くてたまらないなどの考えが浮かんでいました。しかし、「これらの考えを、そのままにしておくと、長い間には妨害になり、悪循環になってしまって、ますます外に出たくなくなるだろう」ということに気がつきました。そこで、目覚まし時計が鳴ったら、頭の中の良くない考えを除いてから、そして「法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい」と心の中で念じるようにしました。効果は良く、今では寝坊しなくなりました。最初は、蚊に刺されるのが怖く、また、ハエが顔を這うのも嫌だったので、網の帽子をかぶりました。その後、私は恐れる心を克服し、帽子を脱いで、蚊やハエが刺したり、噛んだり、這ったりしても気にせず、それを業を滅する機会だと捉えるようになりました。

 しかし、まだ完全には修めきれていない執着心もあることを知っていました。朝起きて雨の音が聞こえると、「今日は公園で煉功しなくていい」と内心で喜びました。自分の安逸心を正し、取り除かなければならないことはわかっていたのですが、それでも時々湧き出てきました。ひどい時には、「明日の天気はどうなのか」をずっと気にしていました。最近、涼しくなってきたのですが、そのせいで、蚊やハエが減ることを、期待するような執着心が出てきました。特に「今日は朝から比較的涼しいから、蚊に刺されることはないだろう」などと思うと、ますます刺されてしまうのです。もし、そんなことを考えたりしなければ、何も起こったりはしないのでした。

 このように、時々湧き出てくる執着心を取り除いては正しました。結果、隣人のメモは相変わらず貼られたままでしたが、親戚が私に問題を持ち込んでくることはなくなりました。

 二、学法と交流に参加することは向上に役立つ

 毎週の集団学法と、プロジェクトチームのオンラインでの学法と、交流の時に、同修から「最近何か修煉体験はありますか?」と聞かれることがありました。最初は、顔を赤らめ、言葉を詰まらせながら、自分の体験談を話していました。一方で、うまく話せなかったり、恥をかくのではないかと恐れ、無意識のうちに、どうしたらうまく話せるかを考えていました。そして、後になって、自分は「真」をやり遂げられなかったことに後悔し、いつも常人社会での会議のように、みんなに認められたい気持ちで話していたことに気づきました。

 その後、法を多く学び、交流する機会を増やしました。いつも発言できるようになってからは、次第に緊張しなくなりました。そして、自分の体験をゆっくりと考えながら話すことができるようになりました。もし、自分が本当に「真」を修煉しているのであれば、自分が知っていることは何でも、飾り立てずにそのまま話すべきでした。グループ交流に多く参加することで、自分の考えを広げ、深めることができました。例えば、ある議題について、同修が法から悟ったことと、自分が悟ったことが異なった場合、自分の考えを再検討し、より正しい理解を得ることができました。また、同修の考えに共感できなかった場合、自分の心を見つめ直すきっかけにもなりました。私は、「どんな場合でも、修煉者同士の交流は、みんなを法に目を向けさせるきっかけになる」と実感しました。

 また、グループ交流の中では、私たちは通常、同修が話すのを最後まで聞き、それから自分の考えを述べるようにしました。しかし、親しい同修と交流する時になると、自分の執著心が次々と湧き出てくることにも気づきました。

 母は、五式の功法の煉功を始めてすでに2年になりますが、まだ『轉法輪』を1回も読み終わっていませんでした。数カ月前、病業(検査で癌が発見された)のために、初めて9日間セミナーを受講し、修煉を始めました。しかし、私と妹(同修)は、母が体の不調に遭遇した時、母はまだ完全に常人の思考のままで、時には大法をあまり信じておらず、自分が修煉を続けられるとは思っていない、ということに気づきました。私たちは、母が法についてどの程度理解しているのかを把握するために、毎週末の午前中、母と一緒に少しずつ学法と交流をすることにしました。

 一緒に交流する時、家族同士なのでリラックスしてしまい、お互いに相手の発言を妨げ合い、相手の話を最後まで聞かずに済ませてしまうことに気づきました。相手が何を言おうとしているのか、何の問題を抱えているのか、ちょっと話を聞いただけでもすぐに理解できるような気がしてしまって、つい自分の意見を言ってしまうことがありました。また、一つの議題をまだ交流しきらないうちに、別の議題に話がそれてしまい、多くの時間を費やしてしまうこともありました。

 母が以前、理解できなかったいくつかの用語を、少しは整理することができましたが、私と妹は、2人の問題も小さくないことに気づきました。私たちは、母親の立場から問題を見ていませんでした。母は修煉を始めて間もない常人であり、人生の大半は近所付き合いだけであり、修煉の何の概念も持たない年配者だったのです。師父と法を信じる度合いが、何十回も何百回も読んできた人と比べられるはずがありません。母はまだ恐れていました! 母の頭の中には、「身体のどこかが不調になったら、それは何かの病気で、何かを補う必要がある」という常人の考えがありました。それは、「修煉者は病気にならない、それは業力である」という信念よりもはるかに強く根付いていたのです。

 母は、話を最後まで聞かず、イライラして忍耐力がなく、礼儀正しくなく、時々とても興奮して話したりするので、私たちは恨む心に加えて、「お母さんが早く修煉を進めていたら、体は良くなるだろうし、私たちは、母の診察や入院、化学療法など、たくさんの面倒なことに付き合わなくて済むだろうに」という深い利己心がありました。そして、冷淡で良くない心も湧き上がりました。そして妹はこう言いました。「いつも母が、常人の近所のうわさ話や、昔のつまらない話を延々と話している時、姉さんは何も言わなくても、『聞く価値がない』という気持ちが顔に出てるよ」と。私はこの状態を知った後、私たちは交流する時に心性の不足があることに気づき、お互いに注意し合いました。今後の交流は、心性を守っていきたいと思いました。

 師父は説法の中で「多くの大法弟子は家族の人に次のような態度をとっています。つまり、相手が私の家族で、家族に有益なことは全部自分で決めてしまいます。家族のためだと思って、一部のことを家族の代わりにやってしまいます。そうではありません。皆さんがいったん修煉したら、皆さんは同じ修煉者になり、それぞれ自分の天国に戻ります。修煉の良くできた人だけが元に戻れます。誰も相手の代わりになることができません」(『各地での説法八』「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」)と説かれました。

 法理は分かっているつもりでも、私たちはいつも、自分の理解で母の言動を捉えてしまい、みんなが不快な思いをしてしまうことがあります。このような、真の修煉者らしくない状況が現れるのは、私と妹がまだ取り除けていない執着心と、まだ十分に「善」ではない心が原因であることは間違いありません。これからは、これらの心を修めて取り除いていこうと思いました。

 三、傘を失くした出来事から執着を見つける

 修煉を始めてから現在まで、私はすでに数本の傘をなくしました。その中には、新しく買ったばかりの傘もありました。

 初めて傘をなくした時は、自分の利益心を取り除く必要があることは分かっていましたが、それでも怒りや悔しい気持ちは、しばらくの間消えませんでした。その後、何度か傘をどこに置いたか忘れてしまった時も、自分の不注意が原因ではあるのですが、それでも利益心を取り除くことだけを考えました。また、自分自身に「考えすぎるな。考えすぎると執着心になる」と言い聞かせました。しかし、今になって気づいたのですが、私はただ考えないようにしていただけで、深く掘り下げて徹底的に取り除いてはいませんでした。

 今回は、学法の場所で傘がまたなくなり、心がつらくなりました。最初、一緒にその場を離れた同修が、「まあ、同修が間違えて持って行ったのかも知れないですね。でも、あなたは心の中ではまだ、不満な気持ちが残っていますね」と言いました。家に帰ってからさらに深く内に向けて探してみました。私は、「利益の執着心が完全に取り除かれていない」ということに気づきました。さらに、憤りを感じる心と恨む心、そして自分勝手な心が伴っていることもわかりました。頭の中では「まだ3カ月も経っていないのに、ほとんど使っていなかったのに!」「学法の場所でのことですよ! どうしてなくなったのですか?」という考えが時々繰り返し湧き出てきました。

 明慧ネット上で、同修が交流した「すべての魔難は偶然ではない」を読みました。私たちは迷いの中で修煉しており、以前に何をしたのかは、今生ではわからないのです。もし私たちがみな良くない行いをしたとして、それらの債権者は債務を免除できるのでしょうか? ですから、私たちが遭遇するすべての魔難は偶然ではなく、因果関係があるのでした。しかも、私たちが遭遇する魔難のほとんどは、師父が私たちのために引き受けてくださっています。このことは私に大きな感動を与えました。借りは返さないといけないのに、傘を数本捨てたら借りを返せるのでしょうか? 師父が私たちのためにもっと多く引き受けてくださっているのでしょうか? しかし、私はまだ傘のことで不満を抱いていました。さらに、この宇宙のゴミ捨て場では、何が私のものなのでしょうか? 私たち修煉者は、これらのものを必要とするのでしょうか? これらに未練はありますか? これらのことを考え通した後、私はようやく本当に放下したと感じました。

 以上は、私の現在の次元での理解です。何か不適切な点がありましたら、慈悲深いご指摘をお願いします。

 責任編集者:李明

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/1/22/468842.html)
 
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