【明慧日本2024年3月13日】遼寧省本渓市桓仁県に住む73歳の法輪功学習者(以下、学習者)・牛彦さんは、2023年3月に警察に連行され、濡れ衣を着せられ、今年2月29日午後、本渓市渓湖区裁判所で裁判を受けた。弁護士は牛さんの無実を主張した。
牛さんが連行され、濡れ衣きせられた経緯
学習者の牛彦さん(70代)と宋月梅さん(70代)は、2023年3月9日午前、西關新村小区で法輪功迫害の実態が書かれた資料を配布していたところ、警察官の王埼らによって不当に連行され、桓仁公安局で取り調べを受け、同時に、宋さんは不法に家宅捜索を受けた。翌日の午後、警察らは2人を本渓病院に連れて行き、健康診断を受けさせたが、宋さんには心臓に深刻な病気があることがわかり、医師が拘留することに適さないと言ったため、宋さんを帰宅させた。しかし、警官は牛さんを本渓拘置所に連行し、不当に拘留した。
その後、渓湖区検事の侯瑞は牛さんに濡れ衣を着せ、渓湖区裁判所に起訴した。今年2月29日午後、渓湖区裁判所は牛さんに対して違法な裁判を行った。牛さんの友人や親友6人が傍聴した。
法律によれば、当事者は友人や親族を含む1人から2人の弁護人を依頼することができる。 しかし、王姓裁判官は、牛さんの正当な弁護権を剥奪し、弁護士以外の弁護人に依頼することを極力阻止した。
法廷で弁護士は、牛さんが無実であると弁護した。 また、牛さんたち2人は19枚の小冊子を配布していたこと、および牛さんが判決を受けたことがあるのはすでに5年経ったため、2つの高裁の司法解釈によっても判決を下すべきではないと指摘した。 一方、いわゆる検察官の侯瑞は、「判決を受けた以上、何年経っても可、何枚の資料を配布しても、処罰されるべき」という法的根拠のない発言をした。その日、裁判所は何の判決も下さなかった。
以下は、1999年7月以降の牛さんに対する迫害の概略である。
1年間の労働教育を強いられた
2000年1月29日(旧正月の23日)、牛さんは法輪功のために北京へ陳情に行き、天安門広場で警察に連行された。その後、北京から遼寧省本渓市の警察に連れ戻され、現地留置場に15日間不法に拘留された。
2000年夏、牛さんと他の学習者は、自宅で李洪志師父の書籍を読んでいた時、現地公安局の警察に濡れ衣を着せられ、連行された。その後、牛さんは馬三家労働収容所に拘禁され、1年間の不当な労働教育を受けた。
不当に懲役7年の判決
2001年8月、牛さんは撫順市新濱県で現地の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の警官らに連行された。 2002年初め、牛さんは新濱県裁判所で懲役7年の判決を受け、2003年3月、遼寧省女子刑務所(瀋陽大北刑務所)に拘禁された。
遼寧省女子刑務所では、牛さんは毎日午前6時から午後12時まで奴隷労働者として働かされ、常に2人の受刑者に監視され迫害された。学習者たちは刑務所の中で話すことが許されず、ある時、牛さんがトイレで誰かと話していたことで、看守は牛さんと牛さんを監視する受刑者たちに水を使うことを禁じ、トイレに行くことさえ剥奪した。牛さんが写した法輪功の経文を持っていたことを知った看守は、牛さんの口、顔、首に10分間以上もスタンガンで電撃ショックを与えた。電撃した後、すぐに刑務所の作業場(衣服を作る)で働かせた。ある時、刑務官は牛さんから大法の経文を見つけると、牛さんを事務室に呼び、電気警棒で感電させ、両手を後ろに縛り、体に縄を巻きつけ、口をテープで閉じ、小さなベンチに座らせた。
拷問のイメージ図:小さなベンチに座らせる |
邪悪な迫害の下で、牛さんは一度転向した。その後、胃が痛くなり、頭が冴えて、牛さんは自分の「転向」が間違っていることに気づき、紙とペンがなかったので、指を切り、血で法輪大法を修煉し続けるという厳粛な声明を書いた。
不当に懲役3年6カ月を宣告される
2014年7月18日、牛さんは北京の天安門広場に行って横断幕を掲げた際、警察に連行され、本渓留置場に14カ月間不法に拘禁された。2015年、牛さんは懲役3年6カ月の実刑判決を言い渡された。
(注:法輪功学習者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)