他人の問題に気づいたら、自分自身を修めるべき
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2024年3月26日】私は昨夜、学法するために学法グループに行きましたが、ちょうど母が市場から帰ってきていたので、私は家には帰らずに直接学法グループに行きました。母は大根を1袋買い、そして、その大根がどれほどよいかとか、いかに安いかとかと言って、私の家のガレージに保管し、別の日に母の所に持って来てくれるようにと頼まれました。それを聞いた私はイラッとして「もう嫌! もう買わないでと言ったのに、なんでまた買うの」と怒りました。母は得をしようとし、きっとものが安かったので買ったのだとは知っています。母は少し不機嫌になり「自分で買えば、あなた達にお願いしなくて済むからよ、迷惑をかけたくないから」と言いました。不機嫌になった母を見て、私はすぐに内に向けて自分の非を探しました。

 私はそうすべきではないのです。80歳の母親がわざわざ買ってきたのに、そんな母を叱った自分は少なくとも、優しくありません。しかも、言われる度に怒るという難癖はまだ取り除けていません。母が1袋も買ったと聞くと、私はすぐ不機嫌になり「買うなと言っても聞かず、自力では運べないし、結局私に任せるしかないのだ」と思いました。そんな自分には、疲れや面倒を恐れる心、他人のために尽力したくない心があることに気づきました。確かに、自分は面倒を恐れる心があるし、他人に迷惑をかけてはいけないと思う心もあります。

 学法後、母が帰りました。ある同修は「安いものを買って何が悪いのですか? 安いものがあるのに、わざわざ高い方を買う必要はないんじゃないの」と言いました。私はそれ以上議論しませんでした。師父は「正しきは彼、過ちは私、何を争ふものか」(『洪吟三』「誰が是 誰が非」)と説かれました。しかし、やはりその同修と話したいのですが、彼女は間違っていると思います。夜家に帰っても眠れず、なぜ同修はそんなことを言ったのか、自分にはどういうところを修めなくてはいけないのかを考えていました。

 朝起きて煉功を終えたとき、自分は利得に対して貪欲ないのかと、気づきました。確かに、スーパーに物を買いに行くとき、安いものを見つけたら買う、安くなければ買わない、そういうことがありました。必要なものかどうかに関係なく、安ければ買います。ダウンジャケットをクリーニングに出すとき、何軒か回って値段を聞き、安い店を選びました。それも利益に執着する心でもあります。他人が行うことは法に合わず、自分の行うことは正しいと考えており、常に他人と照らし合わせるために法を使用し、自分に厳しく要求するためではなく、他者を評価するために法を利用しました。私は心の中で師父に「師父、私は間違っていました」と謝りました。

 母は自我が強く、自分を表現するのが好きで、常人のことを話すとき、世界中で自分ほど知っている人はいないかのように、ずっと話し続けます。自分と照らし合わせてみると、自分にも自我の心があるのだろうか? すると、それを持っているだけでなく、とても強いものだと分かりました。私は自分がどのような執着心を修めるべきなのかを理解しました。最近、同修が私に「法を使って他人を抑圧する」とよく言います。他の同修も、私の前でそのように教えてくれる人もいます。

 また、私はいつも母の前で自分の考えを表現し、母よりも自分の方が法理を理解していると勝手に思っています。実際のところ、私は表面的なことしか知りませんし、母が修煉して取り除いた常人の執着は、私はとっく見えなくなりました。しかし、私は強い感情と面目を保ちたいという願望を持ち、この問題を見ています。再びこの機会を逃すことはできない、必ず法から悟り、向上しなければなりません。

 面倒くさがりやで、言われるたび不機嫌になり、得をしようとする、面目を保ちたい心、法で他人を抑圧しようとする、これらはすべては非常に強い自我です。本当に深刻です。早く法で修めなければなりません、それは本当の自分ではありません。私は早く自分を法で正し、向上したいと思っています。

 今日の交流の中で、ある同修が質問をしました。もともと師父が説かれた法で彼と交流したいと思っていたのですが、ふと考えてみました。彼はこのことにとても執着しているので、それ以上話さない方がよいのです。人にはそれぞれ考え方があり、どんな悟り方でもあります。しかし別の同修はこう言いました。「彼がこのように認識するのは正しいことですが、私は心の中ではいつもそれに同意できませんでした。トラブルが面倒なのと、彼が非難するのが怖かったので、あえて言いたくなく、正直、自分を守ろうとしました」。それを聞いた自分は「なぜあなたはこのことをずっと言うのですか?」と言い、つまりこの問題についてもう交流する必要がないと思います。その結果、彼は機嫌を損ねたのです。しかも、私はまだ気づかず、同修の観点から考えたこともありません。その同修は大声で「では、あなたは今日何をしに来ましたか? 交流に来たのではないのですか?」と私に言い、それを聞くと心の中で少し不満を感じました。この不満は、人に言われたくない心です。当時はそれに気づきませんでした。

 しばらくして、彼はさらにこう言いました。「あなたはとてもうぬぼれていて、いつも自分が正しいと思っています。あの日、Aさん(新学習者)があなたにそんなことを言ったのも不思議ではありません」。そう言われると爆発する心がまた湧き出てきましたが、騙されてはいけないと、ハッと気づきました。その事は大分時間が経ったのに、まだ言われるということは、まだ自分の心中にあるということなので、すぐにそれを手放し、取り除きました。私は何も言わずに微笑みました。

 この自我は本当に頑固なようで、いつの間にか再び現れましたが、同修がいなかったら気づかなかったでしょう。この自我はまだ嫌がり、褒め言葉を好み、そしてまだ言い訳をしようとしています。今日はその問題を起こした自我の心が見つかりました。また、自分を守ろうとし言い訳をしたのです。あまりにも強い自我です。

 今日、同修の助けを借りて、ついにその自我を捉え、取り除こうと決心しました。その自我は私ではない、それは要らないのです。私はこの宇宙で、無私で他人のために生きる新しい生命になるために、修めようと思っています。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/15/474160.html)
 
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