法を得る機縁を大切し、真に実修
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2024年3月30日】

 師父、こんにちは!
 同修の皆さん、こんにちは!

 私は北方大学の11年生で、今年、学院に通い始めてから5年目です。2年前、どのように真に大法を学び始めたのか。そして、最近の個人的な修煉体験や法に対する理解、魔難の突破について共有したいと思います。

 一、子供時代の体験

 私がまだ小さかった頃、母は法輪大法を修煉し始め、私と兄にも紹介してくれました。私たちは一緒に『洪吟』を学んだり、暗唱もしました。時々、母は私を連れてグループで学法(法の勉強)や煉功に参加したり、その他にも、多くの同修が開催するサマーキャンプにも参加しました。それでも、子供時代には時間を無駄に過ごしてしまい、機会を大切にせず、精進していなかったことを後悔しています。

 電子ゲームに触れてからは、母と法を学ぶことはなくなり、家でゲームをして過ごすようになりました。祖父が兄にゲーム機を買ってからは、私たち兄弟は頻繁にゲーム遊びをするようになり、その後、私はゲームのキャラクターを夢で見るようになりました。ゲームやインターネットの利用の結果、私たち兄弟はチック障害を引き起こしました。それは、私の目や顔が本意とは関係なくピクピク動いてしまう症状です。 このことがみつかり、母はゲーム機を売ってしまいましたが、私たちはそれでもパソコンでゲームをして遊んでいました。その後、兄はゲームを続け、私は2年前にゲーム依存症をやめました。母がゲームや長時間に及ぶインターネットの利用を禁止してくれたおかげで、私のチック障害はニューヨークに引っ越してから消えました。

 私は、子供の頃から大法は良いものであり、正しいことをするためには、大法の教えに従うべきだと知っていました。師父は『轉法輪』第九講で、次のようにおっしゃっています。「老子はこう言っています。『上士(じょうし)、道(どう)を聞けば、勤めて之(これ)を行なう。中士(ちゅうし)、道を聞けば、存(あ)るが若(ごと)く、亡(な)きが若し。下士(かし)、道を聞けば、大いに之(おおいにこれ)を笑う。笑わざれば、以(もっ)て道と為(な)すに足らず』」。私は自分が中士のようであり、時には法を心に留めて、修煉者の基準で自分に要求し、時には忘れてしまい、自分を一般人として扱ってしまうことがあります。

 ここに転校して来たのは7年生の時であり、この環境は私に大きな影響を与えました。周りはほとんど大法弟子で、毎日、集団での学法や煉功があり、私は毎日参加するわけではありませんでしたが、この環境は私に良い影響を与えました。クラスメートは公立学校よりも純粋であり、私に集団で法を学んだり、煉功するように言ってくれました。学校で修煉体験の交流会も開催されます。そして、これらすべての要因が私の修煉を促進しました。私はますます修煉者の視点でトラブルに立ち向かい、修煉に対する心がより深まりました。

 二、インターネットによる邪魔

 子供の頃、インターネットを通じて多くの悪い情報に触れていたのですが、8年生になると、事態はますます悪化し、インターネットから私にもたらされるトラブルは非常に深刻になりました。自分のノートパソコンを持つようになってから、私はほぼコンピューターに依存して生活するようになりました。放課後は、ゲームをしたり動画を見ることに没頭し、毎晩遅くまで起きていました。以前のように法の勉強や煉功、発正念を重視しなくなってきました。早く家に帰ってコンピューターで遊ぶために、学校での集団学法に参加しなくなりました。また、母親が煉功をしたのかどうかを尋ねてきたとき、煉功していないにもかかわらず、煉功したと嘘をつきました。当時、私の頭の中には、殺人、暴力、悪口などをネットで見て覚えたりした、さまざまなネガティブな情報が詰まっていました。

 その後、友だちの家に引っ越しました。そこでは電子製品を制限なく、好きなように使えました。これには喜びを感じましたが、同時に、何をしても何をしてもやりがいがなく、退屈を感じました。友人に最近の精神状態を訴えたとき、彼は私にできることをたくさん教えてくれました。それで、何をしても意味がないと感じました。私は人生の方向性を導いてくれる、この世を超えた真理を探求していました。今振り返ってみると、私が本当に探していたのは大法だったことに気づきました。

 師父は『轉法輪』の第一講で、「多くの人が高い次元へ修煉しようと思い立ちますが、今この修煉法が目の前に置かれていながら、あなたはまだ気づいていないかも知れません。師を求めてあちらこちらへと出かけ、いくらお金を使っても、探し当てられないものを、いま目の前に届けてあげましたのに、まだ分からないかも知れません! これは悟るか悟らないかの問題で、つまり、済度できるかできないかの問題なのです」と説かれています。まさに、私の状況は師父が話されたこととまったく同じだったのです。

 三、真に修める

 その後、別の女性の家に引っ越しました。その彼女は、私が彼女の目の前でノートパソコンの画面を怪しげな振る舞いで隠していることに気づき、私のノートパソコンを彼女の部屋に置くことになりました。また、彼女は見てはいけないものは見ないようにと忠告し、ノートパソコンを使う場合は、彼女の部屋で彼女の監視下で使うようにと言いました。そのため、私は一時期インターネットを使わなくなり、それは辛かったのですが、内心ではそれが良いことだとわかっていました。自分に有害なことをしないように自制し、彼女にコンピューターを借りてまで、遊ぶことを求めませんでした。なぜなら、パソコンで遊んだりすることが私にとって有害だと知っていたからです。私は正しいことをしたいと思っています。

 この出来事の後、私はついに真に修め、実修することにしました。その中には、色々な要因があります。大法弟子と一緒にいることから得られるポジティブな影響、インターネットを使わなくなること、明慧ラジオを聴くことなどが含まれています。過去には嘘に騙され、法輪功に対する疑念を抱いていました。これらの観念が私を妨げ、大法の真の内包を理解することができませんでした。その結果、母親が私に、法輪功を学ぶようにと言った時やインターネットで悪いものを見ないようにと言われたときに、私は彼女を拒否しました。しかし、同修と一緒にいると、彼らの大法に対する前向きなフィードバックが、私の大法に対する悪い考えや良くない思いを取り除くのに役立ちました。

  私にとって非常に有益だったことの1つは、明慧ラジオを聴くことでした。ある修煉者が、以前はインターネットで悪いことばかり読んでいましたが、法を得てから、法を学び、毎日煉功することにこだわり、脳と体の中の悪い物質が浄化されていくのを感じるという修煉過程での体験交流がありました。この体験談を聞いて、私は煉功する動機付けとなりました。なぜなら、私もその同修と同じように、インターネットで多くの悪いものに触れ、頭の中に多くのネガティブな情報を植え付けられていたからです。この体験談を聴いた後、私は第二功法を練ることに決めました。その後、母親と一緒に公園に行って、集団での煉功をするようになりました。

 やがて母と同居するようになり、母に説得されて外で集団煉功をし、煉功した後、『轉法輪』を読み始めました。『論語』を読み終えた後、私の世界が根本的に変わったことをよく覚えています。師父は、「修煉者として、大法と同化することができれば、あなたは得道した者、即ち神となるのです」とおっしゃいました。読み終えた後、私の知恵が突然開かれたようであり、奇跡のようでした。人はなぜこの世に生まれてくるのかが分かり、自分の使命が分かりました。師父の言葉に従い、神の道を歩む修煉者になりたいと思っています。ついに私は自分が求めていた真理を見つけました。

 『轉法輪』を読み進めていくうちに、この本で説かれている真理は、非常に高いレベルであることがわかり、欣喜雀躍(きんきじゃくやく。小おどりして喜ぶこと)を感じました。師父が私たちを高いレベルへ導いてくださったことに対して、魅了されました。今まで修煉とは何か、を知らなかったことが信じられませんでした。今まで誰も説明してくれなかったし、誰かがもっと早く教えてくれたらいいのにと思いました。これまで何度も『轉法輪』を読んできたのに、なぜ今になって理解できたのでしょうか? 母が大法を我が家にもたらしてくれたことは、私たち家族にとって本当に幸せなことだと思います。

 四、主意識を強くもつべし

 師父は『轉法輪』第六講で、主意識が強くなる必要性について述べています。しかし、ある時期から、私は思想業や魔によって邪魔されるようになりました。法を学ぶ際、さまざまな考えが私の頭の中から連続して湧き出てきて、怖くなり、集中できませんでした。そして、正念を発するとき、それらの考えは私が発したものだと偽装され、それらを取り除くことができませんでした。

 数か月前のある日、私は心に雑念を持たずに正念を発し、強力な正念で外部からの干渉を阻止すると決心しました。正念を発するとき、私は頭の上の障壁が溶けていくのを感じました。翌日、自分の身長が1センチ伸びたことに気づきました。

 それ以降、私が取り除いた思想業はますます増えていきました。ある週末、私は何をするにも主意識をはっきりしておきたいと決意しました。その一日をしてきて、1講の法を学び、そして正念を発しました後、私の思想がより安定してきました。驚きながらも、混乱した思想業力が本当の自分ではないことに気づきました。私は、はっきりしている状態の学法と正念の発することが多くの思想業力を取り除くのに役立ったと思います。師と法への信じる重要性に気づき、正念で邪悪を取り除くことができるようになりました。

 修煉者の皆さんには、この修煉の機会を大切にし、修煉する心を初めのように持ち続けてほしいです。 まだ法に目覚めていない人々も、法を得る機会を大切にするようになることを願っています。

 以上が私の交流です。もし不適切な点があれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 (北方学校法会交流稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/17/474283.html)
 
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