法理に基づいて修め、 正法の機縁を大切にする
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年4月19日】修煉過程において、自分を含めて周囲の同修の誰もが何らかの欠点を持っており、その欠点のために繰り返し魔難に陥っていることに気づきました。その欠点は、「私心」の異なる人の異なる側面での現れであると私は認識しています。一層一層下りて来るなか、世々生々輪廻するなか、生存のために強気な人もいれば、弱気な人もいます。この「私心」のために、自己を守るために、さまざまな頑固な変異された観念が形成されたのです。

 たとえば、強い人もいれば媚びる人も穏やかな人もいます。また、自分が正しいと考える道徳的な立場を堅持し、他人を見下す人もいます。メンツのために人として原則がない人もいれば、色欲の心が強く、それを手放すことができず、良くないとはっきりと分かっていながら、自制できない人もいます。また、恐怖心にとらわれて、そこから抜け出せなくてとても悩んでいる人もいます。すると魔難が次々とやってきます。私の理解では、これらはすべて「私心」により形成された自己のためという様々な変異した観念に固執するか、あるいは根本的に気づいていないことに起因していると思います。

 中国共産党(以下、中共)に迫害された後、私も常に「恐怖心」にとらわれていました。また、以前はうまくやっていたが、迫害を受けた後その恐怖が心に残っている同修もいます。

 師父は、次のように説かれました。「特に多くの学習者は私に会うことができなくても、あなたに責任を負わなければならないので、法を師とし、本を多く読み、法を多く学べば、どんな問題も解決できると教えました」(『カナダ法会での説法』)

 私は、「自分も法を学んでいる。こんなに長い時間が経ってもどうして解決できないのか?」と思いました。しかし後に、法を続けて学ぶうちに、それは解決できないのではなく「自分が本当に内に向かって修煉しておらず、執着を手放そうとしていなかった」ということに気づきました! ここには古い学習者なのか、新しい学習者なのかの区別はありません。この問題において、法理に基づいて認識することさえできれば突破できるのです。法には、できないことは何もなく、認識ができ、自分をその執着から分離しようとすればよいのです。

 私は悟りました! 大法の中でそれは本当に木くずや鋼水が溶けるようなもので、その執着は何ものでもなく、執着を利用する邪悪も何ものでもないです。それなのに、なぜそれを恐れるのでしょうか。ほかでもなく、それを認識できていないか、或いは手放したくないからなのです。手放す勇気がなく、法を信じないために魔難が現れたのです。そのため長い間解決できないのです。

 この問題に気づいたとき、私はこう考えました。「以前の自分は、人心がとても重く悟性が低すぎた! 師父に対して、大法に対して申し訳ない!」

 ある日、正念を発すると、辛さや不平、色欲、恐怖心が再び現れてきました。私は「自分の主意識の一存で決めるべきで、それらの心は私ではない」と思いました。

 大法弟子が正念を発することは厳粛なことであり、師の正法を助けることです。私は以前のように、緊張して硬直した状態で正念を発することはありませんでした。以前の発正念は、自分自身を守るためのものであったので、とても緊張していました。しかし今回は違いました。とてもリラックスしており、自分自身を法の中に溶け込ませ、大法に私自身の宇宙の中に存在する廃棄物を洗い落してもらうことにしました。緊張感はありませんでした。

 私は時々、不安を感じることがあります。たとえば、真相を伝えたのに相手が認めてくれないと不安になり、迫害されるのではないかと心配するのです。以前はこのような時、無力を感じて緊張し、どうすればよいのか分かりませんでした。しかし今では、その緊張を掴むことができます。

 この「私心」、自分が迫害されることを心配する「私心」が緊張しており、それは私ではないのです。その緊張心理がある限り、それに直面し、それを掴んで消滅します。これは、医師が自分自身に対して手術を行うときに痛みを感じるのと似ています。痛みはありますが、気にせず、できる限り穏やかな心で受け止めます。これは一時的な感覚であり、風のようにすぐに過ぎ去ることを知っています。迫害されるのではないか、という以前のような考えを断絶しました。人間世界の幻です! 数々の幻がありますが、大法だけがそれらの本当の姿を見出せます。数々の恩讐も、大法だけが解くことができます。人間の心理学でも最高のレベルでは放棄に触れていますが、どうやって放棄できるでしょうか?

 大法を修煉してこそ本当に可能です。三界が今日まで存在しているのは、末法の最後に衆生が大法に救い済度されるようにするためです。人は皆ただものではありません。大法弟子も使命を負っています! 人間世界は迷いの世界です。迷いの世界だから修煉できます。大法弟子はもう迷わないでください! 師父は苦心されています。慈悲深い師父が按排されたすべては最高のものです。魔難は私たちを成就させるためです! 人心を放棄し、生死を放棄し、師父の正法を助け、衆生を救い済度しましょう。法の中にいれば、大法弟子は何でも成し遂げることができるのです。

 私の修煉は困難に満ちた道のりでした。それはすべて「人心」によるものです。最初は法を学んだ時心に入らず「人」を学んでおり、「法」を学んでいませんでした。大法の仕事だけを行い、心を修めていなかったのです。大法弟子なのに「大法の中にいなかった」ということでした。後になって、師父の悟らせの下、同修の理性的な分析、法に基づいて正念を持って正しく行う神の奇跡が書かれた明慧ネットの記事を読んで、「法を学んで心を入れることの重要性」を認識しました。そして、「法に心を照らし合わせることの重要性」も認識しました。

 仕事も結果も形式も重要ではありません。「人心」をなくすことが最も重要なのです!

 私は法を書き写し、法を暗記し始めました。徐々に大法を理解し始めました。以前、私は心の中で嘆きました。「こんなに偉大な法なのに、修煉方法は本当に無駄だった!」と、私はしっかり自分の心を修め、自分の心の中を探さなければなりませんでした。他の人ができるのならば私もできるのです。私自身に何か能力があるわけではなく、大法の威力が無限だからです! 

 師父は正法の終わりを何度も延長し、衆生のためにすべてを背負われました。私は必ずこの機会を大切にします。振り返ってみれば、多くの場合、私はまだ「人心」を抱えたまま仕事をしていました。事後にやっとそれに気づきましたが、常に「心性」を修めることができていませんでした。私はそれを改善しようと思っています!

 機縁を大切にし、大法を大切にし、衆生を大切にします!

 私はまだ修煉過程にいます。以上が私の現在の認識です。不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 (編集担当者:李明)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/30/474322.html)
 
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