真に修煉し 合格した大法弟子になろう
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文/黒龍江省の大法弟子

 【明慧日本2024年5月4日】 私は1996年から法輪大法を学び始めた古い学習者です。二十数年間、私は師父のご指導に従い、正法修煉の道をしっかりと歩み、衆生に面と向かって真相を伝え、コロナが流行っている三年間も揺らぐことなくやってきました。師父が慈悲深く衆生を地獄から引き上げておられたので、私たちは法を正す時期の大法弟子として、三つのことをしっかりやらなければなりません。

 警察署で真相を伝える

 2023年春のある日、私が街頭で真相を伝えると、人に通報され警察署に連行されました。一人の中年の警察官が私に「名前は何? カバンの中身を全部取り出しなさい」と問い詰めました。私は慈悲心と威厳を持って、彼に「あなたは犯罪容疑者に横柄な態度を取ってもいいですが、私は犯罪容疑者ではありませんので、そんな態度を取ってはいけません。この部屋を見て下さい、容疑者らしい人がいますか?」と言い返すと、中年警察官は言葉を失い、横柄な態度がなくなり、気まずそうな表情を浮かべました。

 私は雰囲気を和らげるため、わざと彼に「水を持って来てください」と頼みました。そして、中年警察官は若い後輩に「おばさんに水を持ってきて」と命じて、若い警察官は別の部屋に行って戻ってくると、「水がない」と報告すると、中年警察官は「買ってきて」と再び命じました。しばらくして、若い警察官がミネラルウォーターを持ってきて、私の横に置きました。私は続いて彼らに「あなたたちは車で私をここまで連れてきて、国家安全隊長も呼んできたので、今日のような機会はめったにないから、みんなで座って話しましょう」と言いました。そして、みんな部屋の真ん中にあるテーブルを囲んで座りました。

 私はまず「『憲法』第35条には、中華人民共和国の国民は言論、出版、集会、結社、行進、デモの自由を享有する」を暗唱しました。そして、「『憲法』第36条には、中華人民共和国国民は宗教信仰の自由を享有する」と暗唱する時、これらの警察官も私と一緒に暗唱しました。その場面は、まるで私を招待して彼らに講演するようなものでした。

 私はさらに、「法輪功の修煉は『憲法』によって保護されています。中国のどの法律にも法輪功が「邪教」とされている条文はありません。法輪功が「邪教」という言い方は、江沢民がフランスの「フィガロ」紙の記者と会見した際に、吐いたでたらめな虚言から由来したものです。一人の極権者の気まぐれな話を法的根拠とすることができると思いますか? しかも、法輪功に関連するすべての公式文書を調査して、例え1999年7月22日の民政部の通達から、公安部の通達、公安部が当時発表した「邪教組織の認定と取り締まりに関する通達」、そして中国共産党中央弁公庁と国務院弁公庁と公安部が認定された14種類の邪教の中にも法輪功は含まれていません。全国人民代表大会の決定とその後の最高人民裁判所と最高人民検察庁の司法解釈でも、法輪功を「邪教」と定義するものもありません。私たちが法輪功を修煉することは法規にかなっています。法輪大法は、人に宇宙の特性である真・善・忍を伝え、徳を重んじ、あらゆる面で他人を思いやり、トラブルに直面したら内に向けて探し、自らを修めることを教えています。現代社会をご覧ください。売春、賭博、薬物、偽物が蔓延しています。法輪大法の修煉者が道徳を向上し、善良に向かい、今日の社会で流行っている不正行為一切ありません。これは素晴らしいことではないでしょうか?」と言うと、国家安全隊長は「素晴らしい! 法輪功は素晴らしい! 中国人はみんな法輪功を修煉したら、社会の風紀は良くなるでしょう!」と賛嘆しました。

 私は引き続き「法輪功は人々にいい人になるよう教えるだけではなく、病気治療や健康保持の効果も素晴らしい。実は私は病気治療のために法輪功を修煉始めました。そして、薬も飲まずに病気が治り、今日になって27年間、国のために数十万から数百万以上の医療費を節約しました。このような素晴らしい功法が世界中に広まっているのに、中共だけが受け入れないのは正常でしょうか? 法輪大法は佛法であり、法輪大法が誹謗中傷される中、真相を分かった人が自ら権利範囲内で大法弟子を守ったら、必ず神の保護を受けるでしょう。さらに、『法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい』を心から唱え、悪党から離脱すれば、明るい未来が待っています。この三年間のコロナは即ち悪党を淘汰するためにやってきたものです」と言いました。

 この時、一人の若い警察官が「法輪功がよいものであれば、自宅で煉功すればいいのに、なぜ焼身自殺するのですか?」と尋ねました。私は「私たちの師父は法理の中で明確に弟子たちに:法輪功を修煉する人は殺生してはならず、自殺は罪であると教えました。中共は歴代の政治運動で大衆を煽って、大衆と闘わせる卑劣の手段を使っています。2001年の新年、江沢民グループの悪党たちは、また『天安門焼身自殺事件』を計画し、衝撃的で恐ろしい映像を作り上げ、人々に恐怖を覚えさせ、憎しみを煽り、法輪功学習者への迫害をエスカレートさせました。しかし、CCTVが放送した『天安門焼身自殺事件』の映像では、「自焼者」王進東の服と顔が真っ黒になっているのに、股間に挟んだガソリンの入ったペットボトルは変形しておらず、王進東の髪も燃えませんでした。少女の劉思影は気管切開手術を受け、チューブを装着していても、力強く澄んだ声でインタビューに応じ、歌を歌いました。これはあまりにも不自然ではありませんか?」と言うと、「それは演技だ 」と警察官が言いました。私は「そう、演技です!」と肯定しました。

 それから、彼らはさらにいくつかの質問をしましたが、私は一つ一つ丁寧に答えました。正午の昼休みになると、彼らは一斉に立ち上がり、私をドアまで送ってくれました。私は彼らに、李洪志先生が全人類に向けて発表した『なぜ人類が存在するのか』を必ず読んでくださいと言って、家に帰りました。そして、引き続き真相を伝えて衆生を救い済度する活動に取り組んでいました。

 同修の問題を見て、内に向けて自分を修める

 私は長年学法グループの同修仲間と一緒に真相を伝えています。長い間を共にしてきたから、お互いをよく知っていて、誰がどんな執着を持っているか、修煉状態がどうしているかはっきり分かっています。それによって、心性的な摩擦を生じることもあります。例えば、同修Gさんは外見から見るとよくできているように見えますが、実際には常人より劣っている一面もあります。例えば、よく嘘をついているので、私は彼が言っていることはどれが真実か、どれが嘘か分からなくなっていました。次第に、彼に対してネガティブな印象を持ち、人心で彼を排斥し、彼と協力して人を救い済度するプロジェクトもやりたくなくなりました。

 この状況は半年以上続きました。私はやっと自分の修煉に問題があると気付きました! 私は自分に「この状態は正しいのか? 同修Gさんの行動を自分に見せたのは偶然なのか? これは自分を修煉させているのではないのか? 自分の行動は常人のレベルに引き下げたのではないのか?  外に向け探し、他人を修煉させているなら、師父が要求している内に向けて探すことと反対になっているではないでしょうか?」と問いかけました。ここまで考えると、私はびっくりしました。二十数年修煉しているのにまだこんな調子で、師父の救い済度に申し訳ないと思い、恥ずかしくなりました。

 私は心を静めて真剣に法を学びました。同修Gさんの状態は、すなわち彼がまだ修煉できていない一面の表れであり、取り除く人心です。その同時に、私の向上にも手助けしています。しかし、私は人心で彼を排斥し、非難してしまい、かえって自分の修煉の妨げとなってしまいました。

 師父の法が私の心のしこりを解消してくださいました。そして、私の心性が向上してから、同修Gさんの修煉も急速に向上し、それらの法に符合しない行動も次第になくなりました。

 修煉者は口だけでなく、意識も修煉しなければなりません。一思一念は常人であるか修煉者であるかを反映しているので、自分の思惟をコントロールし、あれこれを考えないようにすべきです。これらの考えはすべて執着であり、汚い人心であり、私たちが天国に戻る際に捨てなければならないゴミなのです。

 私の一家は悪党に「地主成分」と指定されていたので、私は子供の頃よくいじめられていました。その時、私は憎悪の感情を生じ、将来復讐してやろうと思いました。それで、誰か私にひどい仕打ちをしたら、私は一生忘れません。そして、学校に入学してから、私は優等生だったことで、成績の悪い同級生を見下し、高慢でした。この不善な心は修煉にも持ち込まれ、精進しない同修を見下し、彼らは師父にご迷惑をかけていると考えました。これらはすべて後天的な観念であり、真我ではなく、旧勢力によって押し付けられたもので、取り除かなければなりません。しかし、私はだらだらして、20年以上経ってもまだ取り除いていませんでした。

 修煉はすなわち自分を修め、心を清めるのです。師は「実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです。」と説かれました。 (『精進要旨』〈誰のために存在するのか〉)師父の法は私に智慧を開き、長い間形成されてきた不善な「塊」を溶かしてくださいました。

 『共産党についての九つの論評』が出版されてから、私と同修たちは緊密に協力し、『九つの論評』、真相冊子、真相DVD、明慧カレンダーなどを配布し、同時に、衆生と面と向かって真相を伝え、三退(中国共産党の組織から脱退)を勧めました。都市から田舎まで、周辺の村なら私たちが自転車で行き、周辺の村が終わると、私は電動三輪車を買って、さらに遠い村へ行きました。遠い村が終わって、もっと遠いところへ行くために、私はまた車も買いました。それから、雨の日でも暑い日でも、坂道でも、平気になり、県内のいたるところに真相を届けました。

 20年以上の修煉を振り返ってみると、修煉は難しいこともあれば、簡単なことでもあります。最も難しいのは最後まで粘り強く継続することです。自分をよく修煉しさえすれば、真・善・忍に同化することができ、三つの事もよく行うことができ、大法弟子の本当の姿を示すことができ、大法の素晴らしさと超常を証明することができます。

 個人の悟りで、もし何か不適切な点があれば、同修の慈悲深いご指摘をお願います。

 師父、ありがとうございます。

 同修の皆さん、ありがとうございます!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/4/22/475297.html)
 
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