【慶祝513】真に修煉することは魔難から抜け出す唯一の方法だと信じている
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文/成都市の大法弟子・恒信

 【明慧日本2024年5月23日】(編集部注:大法修煉は、この世に来た目的を実現するもので、圓満成就のためです。大法修煉を始めた動機は人それぞれです。この修煉に人生の真の意味が含まれていると確信した人もいれば、修煉者が修煉によって「恩恵」を得られるのを見て、修煉を始めた人もいます。しかし、しばらくして、それほどの「恩恵」を得られないと感じたり、あるいは名、利、情を失ったと感じたりした場合、それでも、あなたは修煉をし続けますか? 信じ続けるのですか? 結局のところ、「なぜ修煉するのか? 何を信じているのか? どこまで信じるのか?」と、あなた自身が自分を本当の修煉者と見なすことができるかどうかにかかっています。「人が何のために存在するのか」「大法弟子が何のために存在するのか」と、本当に理解できるかどうかにかかっています)

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 今日、書いた文章は、同修が普段、明慧ネットで読む文章とは違うかもしれませんが、私の個人の修煉状況が、一部の同修の直面している状況を代表しているかもしれないと考え、「5.13」の交流会に参加し、交流したいと思います。

 自信が揺らぐ

 私の個人的な状況を簡単に紹介します。私が法輪大法を知ったのは、まだ迫害が始まっていなかった中学生の時で、もう20年以上前のことになります。家族が法輪大法を修煉していたこともあり、私も興味を持ったので、法輪大法をしばらく学んでいましたが、本当に法輪大法の道を修煉を始めたのは、それから数年後のことで、中国共産党が法輪大法に対してもっとも残酷な迫害を行った時期でした。

 修煉者は修煉の初心が最も重要であることを知っています。では、私は何のために大法の修煉に入ったのだろうか? 当時、気功がブームになっていて、大法を修煉することが公にできる時期で、私がよく耳にしたのは「病気」のために気功を習い始めたという話でした。もちろん、その中に健康な若い大法弟子もいたので、彼らは単純に大法は素晴らしいと思っていました!

 私は当時、20代前半で、健康には何の異常もなかったのです。今でも、時々「自分がどんな気持ちで修煉の道に入ったのか?」と振り返ってみています。当時、病気を治すためではないことは確かです。というのは、当時、私は何の病気も患っていなかったし、死を恐れて死から逃れたいわけでもなかったからです。20代の人なら、健康であれば、おそらく健康に執着する人はいないだろうと思います。 

 しかし、修煉の過程で、私の体にはいくつかの 「病状」が現れました。特に私の太ももの内側の付け根のところに大きな白斑が現れてきて、耐え難いかゆみになっていました。掻くと白いものがぼろぼろと剥がれ落ち、皮膚が破れると膿の黄色い汁が出ていました。夏にズボンをはいていても臭いがするほどで、人前でも掻かずにはいられないこともあって、本当に辛かったのです。 

 その当時、私は自分が煉功者だと思っていて、その病業を気にしていなかったのですが、私が時々掻いているのを見ていて、両親に「下品だよ」、「もう大人だから、あんなことをするのはあまりに醜い。みっともない」などと言われ、よく怒られました。私の修煉状況の良し悪しにもかかわらず、このような状態が3年続き、症状が改善できませんでした。時間が経つにつれて、「この功法は本物なのだろうか? 法輪大法の宣伝では、病気と健康に奇跡的な効果があるというのに。煉功者たちも、この病気やあの病気が治ったとかよく言っているのに、なぜ、私の病業が一向によくならないのか?」と自信が揺らぎました。

 自分の 「病気」が治らなかったという「事実」から、それ以後、大法に対して本当に半信半疑な気持ちになってしまった大きな理由です。しかし、気功で病気の治療ができるという確信は持っておりますが、段々と大法の修煉を気功の鍛練と混同してしまいました。ですから、堅く信じることができないので、その後は仕事が忙しくなり、煉功することも徐々に減りました。ある日、股の痒みに耐えられなくなり、省で一番大きな病院に行きました。医者に股の白癬だと言われ、2週間分の薬を処方されました。その薬を使って病状がすっかり良くなりました。それから、私は大法のことをあまり信じなくなり、功法も煉らなくなりました。

 乱れたこの世で、浄土を探す

 私は数年も、大法の修煉をしていなかったのですが、この前の経験から、大法の修煉は、危機的状況に陥ったとき、その状況から抜ける最終的な手段だとわかっていました。人生で不遇なことが多く、特に私のような学歴も人脈もなく、大都会で漂泊している人間にとっては、苦しいこと、辛いこと、疲れること、憤りを感じることがたくさんあります。その場合、私は頭の中によく大法の法理を思い浮かべました。他人と接するとき、ほとんどの場合、私は意識的に高い道徳心を持って付き合うことにしています。法輪大法が人の道徳を向上させるものだと私は、いつも心の中で信じています!

  生きていくため、より良い暮らしができるため、私は必死に働き、専門分野での才能が、多くの上司や同僚に認められました。しかし、長年、机に向かって仕事をしていたために、私は深刻な頸椎症と五十肩に悩まされました。最も深刻なのは、手を肩から上に持ち上げることができず、頸椎により神経の圧迫でめまいや嘔吐、2日間もダウンしてベッドから起き上がることができないこともありました。

  それで、私は再び大法のことを思い出しました。しかし、大法に対して、「煉ると体を強化することができる。小さい病気を治すことができる。頑固な病気には役に立たない」という思い込みがあるため、煉るかどうかを迷ってしまいました。その後のある日、オフィスに私1人しかいなかったとき、肩の痛みは本当に我慢できないほどでした。そこで、「多分煉功すれば、この痛みに効くだろう。筋肉や骨を動かすだけでも良いから、やってみよう」と、約15分間第2式の功法を煉りました! なんと私は大汗をかきました。

 それから、私は功法を煉り続けるようになりました。しかし、私の体にまた、良くない状況が現れました。当時、私は事業を起こしたばかりで、「もし、健康状態が悪ければ、どうすればこの起業したばかりのビジネスを軌道に乗せることができるでしょうか? やはり煉功しなければ!」と思いました。そこで、ネットでいくつかの交流文章を読みました。そのほとんどは重病に陥った人が、法を数節読んだだけで病気が治った、あるいは功法を学んだばかりの人が煉っただけで、病気がすぐに治ったというものでした。したがって、私は「業力が解消されるのは間違いない。人それぞれの状況があるので、必要な時間が違うのだ。私の体もきっと問題がない」と心の底から信じていました。

 しばらく修煉をし続けていましたが、やはり「頚椎症」はあまり良くならず、変化がなかったのです。頚椎の痛みのため、私は基本的に静功のとき、入定できませんでした。以前、一番状態が良い時期、私は深く入定することができ、本当に卵の殻の中に座っているような感じで、1時間半座禅しても足の痛みがあまりなく、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

 「修煉が精進していないのだろうか」と、内に向けて探し始めました。同時に、学法を強化し、雑念をなくすために、法(当時、私は本を持っていなくて、パソコンで電子書籍を読んでいた)の勉強する強度を上げたり、法を写したりなどの方法を試しました。 しばらくして、私の肩と首はいっそう痛みを増し、同修が書いた修煉体験のような効果は現れなかったのです。

 それで、自信はまた、少し揺らぎましたが、私はすぐにその念を止め、師父がおっしゃった 「簡単に手に入れたからといって、簡単にそれを失ったりしないように」 (『轉法輪』)という言葉を心の中で念じ続けました。しかし、そうしながらも、心の底ではいつも、「煉功しているのに、なぜ、病気が治らないのだろうか」と、少し残念な気持ちがありました。一つ確かなことは、私の身体は全体的に見れば健康です。長年の間、病気をあまりしていなかったのです。うちの子供は、生まれてから小学校4年生になるまで、私が病気で薬を飲んだのを見たことがなかったのです。

 激務の仕事のために、時々頸椎の痛みがあります。脳へ長期的に血液供給が不十分であるため、頭がよくフラフラしていて、煉功してもあまり緩和されないようです。ですから、それを緩和するために、私はマッサージに行ったり、推拿をしてもらったりして、多かれ少なかれ、ある程度効果がありました。私は大法の修煉を続けていますが、心の中では、大切にしている宇宙大法に対して、抱いていた最高かつ無限の敬う気持ちが徐々に薄れてきました。

 私は時々、大法の修煉で奇跡を体験した同修を羨んだりします。たとえば、「煉功をしただけで病気が治った。他の空間のものを見たり聞いたりすることができる」ことです。そのような修煉者は、大法と素晴らしい縁があると思います。私は、「法輪大法を広め、実証するとき、その人は大法を修煉して病気が治ったのだから、恩人に感謝すべきだ。以前は頭が悪くて不器用だった人が、修煉してからは頭が良くなり、能力も向上したのであれば、また、修煉して家庭環境と職場環境が良くなったのであれば、その素晴らしい出来事を他人に伝えるのは当然だ。それなのに、なぜ、大法を実証するために一歩も踏み出せない修煉者がいるのだろう?」と思ったりします。

 私もその1人です。大法を修煉しているにもかかわらず「病気」が治らないため、説得力が弱いと感じ、なかなか外へ出て、大法を広めることができません。しかし、私は煉功してから、体が全体的に健康で、あまり風邪のような外部からの感染がなくなったのも確かなことです。

 考えてみれば、今、伝染病が多くて、誰もが健康になりたいので、この視点から話せば、人を大法の門へ導き、その人が入門してから、自らの体験で大法に対する見解があるでしょう。

 「そうしよう。親戚から大法のことを伝え始めよう」と私はやっと思いつきました。これからこのように人に大法のことを伝えようと思っていたときに、さらなる大きな魔難がやって来ました。

 自分の目と心臓のように機縁も大切に扱う

 近頃、私はよく、師父が「忍び難がたきは忍びうる。行ない難きも行ないうる」(『轉法輪』)と説かれた法が頭に浮かんでいます。以前は文字通りだけ理解していましたが、今ではまったく違う意味になっていることに気づきました。

 「難」とは何でしょうか? 座禅の中の肉体的苦痛ですか? 人と人とのトラブルでしょうか? これらの苦難は、目に見えるし、感じるものです。しかし、見ることも触ることもできない「難」があります。その「難」は、見えないが、山のように重くのしかかっているものです。私は天目で何も見たことがありませんし、「頑固な病気」ですら、煉功しただけで治ったわけでもありません。それでは、大法を信じるか信じないかは私にとって避けられない問題です。

 重病を患いながらも、煉功によってすぐに回復した同修たちは本当に幸運です。私の考えでは、これらの同修はもう自分の信念を疑うべきではありません。大法はあなたを死の淵から連れ戻し、あなた自身がそれを体験したからです!

 さらなる苦難に直面し、「業力」を踏んで前進する

 長い間「病業」が改善されなかった状況下で、私は「忍び難がたきは忍びうる。行ない難きも行ないうる」ということができず、自信が大きく損なわれました。「煉功で病気が治ったとか、『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』と唱えて病気が治ったなどの記事を見ると、「偶然じゃないか、誤診じゃないか」と思ってしまうのです。勿論、私は気功が絶対病気を治すことができると信じておりますが、だんだんと、大法の修煉を気功の鍛練と思うようになりつつあります。

 実際、私はずっと大法を至高の位置に置きたかったし、そうすることに努力してきました。しかし、外在的な努力でそこまでするのは難しいと気づきました。

 一年前、中国本土での新型コロナウイルス感染症の流行による死者数に関する師父のご開示したことへの理解不足から、当初の堅くない「信」は基本的に崩壊しました。それで、私は法を学ぶことに消極的になりましたが、それでも功法を煉り続けました。その間、常人がするような常軌を逸したことをたくさんしました。

 自分を修煉者として扱わないことは、自分を常人として扱うことです。修煉しなければ、師父に消していただいた業力は自分の身に返ってくることになります。そして、ある日、突然耳鳴りが発生し、最初はそれほど深刻ではなかったのですが、だんだん深刻になり、片耳から両耳になり、それから間もなく、私の睡眠が深刻な状態になりました。最初の8カ月間はほぼ90%が一晩中眠れない状態でしたが、9カ月目からは少しよくなりました。長引く耳鳴りで、私はすでに左の聴力が低下していると感じています。しかも、かなり改善した頚椎の痛みが胸椎に移ったようで、喉が締め付けられるような感じがして、夜中に「無呼吸」が現れ、何度も息ができなくて目が覚めました。ただでさえ悪い睡眠がさらに悪化しました。長い間、あまりの耐え難い苦痛で何度も自殺を考えました。

 私はまた、大法修煉のことを思い出しました。それから、私は時々刻々、自分を本当の修煉者とし、すべての念と行動において、理解している修煉の基準に従い、最善を尽くしました。もうすぐ1年になりますが、私は『轉法輪』を2回暗記しました。耳鳴りは良くならず、睡眠だけが少し改善しました。

 ある日、私は冗談で妻に「もし、毎日2、3時間煉功をし、1、2時間法を学び、それでも病気が治らなかったら、あなたなら、それでも修煉をし続けるか?」と尋ねました。妻は苦笑いしながら、「理解できない。私なら、他の方法を探してみる」と言いました。これは、毎日そばにいる妻の答えでした。

 時々、煉功して得た善の報いは何かと考えたりします。私はいくら修煉ができてなくても、常人よりましだと思っています。大法を修煉しない友人や親戚、同年代の人はタバコを吸い、酒を飲み、トランプ遊びをし、夜更かしなどの悪い習慣があるのに、健康には大きな問題がありません。私は「これらのことに一切手をつけず、時間を見つけて功法を煉り続けているし、何で私はこんな状態なのか」と思ったりしました 私は、どうやって「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と彼らに伝えるのですか、どうすれば大法を実証することができるのでしょうか?

 しかし、悲観的な考えに支配されてはいけないことはよく分かっています。周囲にいる親戚である大法弟子が確かに20年以上薬を飲んだことはないし、常人のような人生は意味がないとわかっています。私は自分の心の扉を開き、本当の自分を見つめて、「返本帰真をしたい、修煉したい」という自分がいました。「内に向けて修めること、善い人になること、『真・善・忍』『生命双修』」などと、私の心の中に修煉者の思い出が浮かび上がり、修煉することは良いことで、修煉することは間違ったことではないと思っています。

 魔難がどのように現れても、私は繰り返し自分の心に問いただした結果、「真の大法弟子になりたい」と思ってます!

 限られた次元での個人的な考えですが、間違ったところがあれば、ご指摘をお願いします。

 (明慧ネット「5.13」世界法輪大法デーの入選文章)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/5/3/475914.html)
 
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