文/惜縁
【明慧日本2024年6月7日】(前文に続く)
私の妻は、数年前に大法を得た直後に大きな病業に遭い、最終的にこの世を去りました。妻が去った後、私は彼女への思いに陥って、とても寂しく感じ、徐々にパートナーを探したいという思いが芽生えてきました。私は携帯電話で常人とチャットをしたり、携帯電話のゲームをしたりして、この寂しさを埋めるようにしました。これにより、私は徐々に修煉を緩め、大法から離れ、心性が低下し始めましたが、自覚はありませんでした。
この状態は1〜2年間続き、私は長い間この情への執着に陥って抜け出すことができず、心性が長期間向上しませんでした。徐々に、常人の境地と修煉者の間に大きな差があることに気付き、常人の異性とのチャットにがっかりするようになり、同時に身体的な不快感が現れました。私は、このままではいけないと思い、ある日、チャットアプリを削除する決心をしました。削除すると、ほぼ同時に、画面に親指を立てて手を振っている3つの手が現れました。神が喜んで私をほめました! 私はとても嬉しくて、自分が正しいことをやったと分かりました。
今年の旧正月前、久しぶりに北京へ行き、叔父を訪ねました。叔父は今年97歳で、私に会うと非常に喜んで、酒を出して一緒にお祝いをしようとしました。私はその時、叔父のもてなしを断れずに、修煉者としての酒に対する考えを忘れてしまい、少量の白酒とビールを飲んでしまいました。最初は何の不快感もありませんでした。その後、北京から上海に行って、地元の女性同級生を迎えに行きました。私はネットでこの同級生としばらく付き合い、会話もうまくいっていました。その時、私は完全に常人の感情に支配されており、同級生を迎えに行き、自宅に泊めることにしました。独身の男女が同室にいることは現代の常人の道徳基準ではさほど大きな問題ではないように思えますが、伝統的な交際の礼儀で考えると間違っています。修煉者として、このような行為は大法の教えから大きく逸脱しており、修煉の大きな過ちです。幸いなことに、師父の法身が見守ってくださり、誤った行動をとるのを防いでくださいました。
翌日、この同級生を送り出して家に戻ると、突然床に倒れて身動きが取れなくなりました。頭ははっきりしていましたが、手足を動かすことができず、声を出すこともできませんでした。電話が鳴ったり、誰かがドアをノックしても、一生懸命に動こうとしても動くことができませんでした。そのまま、私は何も飲み食いをせずに床に横たわり、4、5日が過ぎましたが、寒さや空腹を感じませんでした。その時、私の天目が見えなくなり、お腹の法輪の回転も感じることができず、修煉によってできた体の功と霊体が一気に体から離れていくのを感じました。息子が人を頼んでドアをこじ開けて助けに来るまで、私は床に倒れたままでした。
私の足首が腫れ始め、すぐに両足とも大きく腫れ、足首から大量の膿が流れ始め、膿は蛇口が完全に閉まっていないかのように滴り続け、地面に足をつけると、すぐに地面がびっしょり濡れました。そのため、一人で生活することができなくなりました。半月後、娘が帰ってきて私を病院に連れて行き、医者は「血栓だ」と言い、一部の閉塞された血管を切除する手術を行いました。
退院後、私は自分が大法から離れていることに気がつきました。新型コロナパンデミックの中で、ある日私は突然体が非常に不快に感じ、ウイルスが一気に体全体を占め、肺の中はすべてウイルスで満たされているように感じました。私は法を学び始め『轉法輪』を3回学んだ時点では体に変化を感じませんでしたが、4回学んだ時には体の汚れが下に流れていく感覚がありました。5回読み終えると、体の中で砂のような汚れが「ザラザラ」と音を立てて落ちてくるのを感じ、体が一気に軽くなりました。私はいま、大法を学ばなければこの関門を越えることができないと思い、学法を強化し始めました。時間がある時にはすぐに法を学び、煉功しましたが、体に大きな変化を感じることはありませんでした。内に向けて探すと、ゲームへの執着があることに気付き、毅然として携帯電話のゲームを全て削除しました。
20日後、再検査のために病院に行くと、胆嚢に結石があることがわかりました。結石が胆管に流れ込んでおり、胆嚢摘出手術が必要でした。私の父は胆嚢手術をした後に亡くなり、叔母は腹部から膿が流れて亡くなりました。今、私は両方の危険を抱えています。医者も手術のリスクが非常に高いと述べ、血栓が生じて手術台から降ろせなくなる可能性があるため、私のような患者を他の病院は受け入れないだろうと言いました。この時、私は自分が生死の狭間に立たされていると感じ、死を司る神が私を引き摺り去ろうとしているのを感じました。師父の詩「生死に執着無く、坦坦たり正法の路」(『洪吟二』・「正念正行」)を思い出し、心がとても穏やかになって、すべてを放下し、師父と大法に任せることにしました。
手術の時、全身麻酔を受け、目は白い布で覆われていましたが、頭ははっきりしていて、恐れを何も感じませんでした。この時、私の天目が再び開き、医師たちが手術を行う様子がはっきり見えました。麻酔の効きめがなくなって目が覚めると、同病室で同じ時間に手術を受けた人はみな痛みでうめき声を上げていても、私は何の痛みも感じませんでした。主治医や他の医師たちは驚き、これまで見たことがないと言いましたが、私は師父がご加護してくださっていると分かりました。
その後の3日間、昼夜を問わず、私の天目は素晴らしい景色を見続けました。私は自分が巨大な霊台の上に横たわっており、霊台の下には数枚の道家の札(お守り)が敷かれていて、数段積み重ねられているのを見ました。私が、心の中で「法輪大法はすばらしい、真・善・忍はすばらしい」と唱えると、札が一枚一枚天女のように飛び立ち、私を天に一気に運び上げ、目の前には泥像の仏が現れましたが、その仏像の目は回っていました。おそらく師父は、私が生死を捨てた後、次元が上がった境地を見せてくださったのだと思いました。
天目で、私の体は非常に大きくなり、頭が天に向かっており、足は地球上の雲の上を踏んでいて、地球を見下ろすと、地球のすべてが見え、何を見たいかを思い浮かべると即座に見ることができました。高い山、海、川など、すべてが非常に小さく見えました。長江はマッチ棒のように見えました。私は長江の上空が非常に深刻な大気汚染であるのを見ましたが、ひとつの念が私にその汚染された環境を整理するのを手伝ってほしいと言いました。
その後、高い次元の生命は私を連れて地球全体を視察しました。私は飛行機に乗っているような感覚で、一瞬で峡谷に連れて行かれ、そこで峡谷の景色を見ました。そして、直ちに海岸に行って、多くの高層ビルを見ました。これらの風景が瞬く間に変わり続け、一晩中見て、何百もの異なるシーンがあったと思います。
師父は『轉法輪』の中で「人体は一つの小宇宙である」と説かれました。その後、高い次元の生命は私を自分の体の中の小宇宙を見に連れて行ってくれました。見たい場所を思い浮かべると、その場所が雲を切り裂いたかのように現れました。私の足は人間の空間では双盤ができませんが、他空間では私の足が首まで折り曲げられていました。師父は『轉法輪』の中で「煉功はあちらの身体が作用しているからです」と説かれました。私は、他空間の私の体には病気が全くないのを見て、人間の空間で行ってきた様々な間違ったことが原因で、徐々にたまってきた黒いゴミによって「病気」になったのだと思いました。苦労して、心性を高めることによって、その黒いゴミは自然に排出することができます。私の足首のところはゴミ捨て場のように黒くて、長年の間に形成されたゴミがここから外に排出されていき、それは非常に詰まっているので、ゆっくりと排出されていました。白癬菌に感染した足の爪は、他の空間では私の小宇宙の中で蟲に噛まれた樹林のようでした。私は胆嚢の様子を見たかったのですが、なぜか見ることができませんでした。自分の毛穴を見ると、最初は小さな黒点でしたが、次第に大きくなり、最終的には私たちの人間の空間と同じような都市が見え、そこには人がいて、車や列車が走っていました。その光景は私の目の前を高速で通り過ぎ、まるで師父が『轉法輪』の中で「彼は「人の毛穴一つの中にも町があり、電車も走っていれば、車も走っている」と言いました」と説かれたとおりでした。
小宇宙から出てきて、宇宙の他の各空間の光景が次々と私の目の前に現れました。太陽のない空間もありますが、草花が非常に茂っていました。ある空間には草花がありませんでしたが、多くの高層ビルがあり、非常に美しく見えました。また、ある空間には、大規模な祝祭が開催されていて、ある空間の神は私に見たことのない宝物を見せてくれました。・・・・・・各空間の構成物質が異なり、状態も異なります。私がどの空間に入りたいかを思い浮かべると、瞬間にその空間に入り、振り返ってその空間をもう一回見たいと思うと、すぐその空間に戻りました。宇宙の中に空間があまりにも多すぎて、その光景は本当に師父がおっしゃったように「言葉にできないほど玄妙なものです」(『精進要旨』「正性」)。私が正法の口決を念じると、宇宙の中のゴミが海の波のように絶えず外へ排出されました。
今回の病業関門を乗り越えた経験により、修煉の厳粛さが分かり、大法の非凡さを感じました。私の天目の所見は、私たちが学法、発正念、心性を高めた際に、他の空間で巨大な変化が起こっていることを証明しました。見えないから感じないからと言って、師父の説法を信じないわけにはいかないのです。魔難があってこそ、私たちは心性を高める機会が得られ、また他の空間での体が大きな変化を起こします。魔難は修煉の足かせではなく、神の道を歩む上での昇華の階段なのです。恐れたり、魔難と対峙し、それに抗(あらが)い、恨みを抱いたり、魔難を避けたりしてはいけません。魔難の中で心性が少しでも高まれば、師父は私たちを非常に高い境地に昇華させてくださいます。
個人の次元での所見で、法に合わない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
合十
(完)