文/海外の大法弟子
【明慧日本2024年6月25日】私は医師です。これまで20年以上にわたる修煉で、多くの衆生を救うプロジェクトに積極的に参加してきました。その間、できるだけ常人の事は少なくし、生活は真相を伝えることを中心にしていました。しかし、師父の新しい経文『目覚めなさい』を読んで、自分が行ってきたことが修煉と慈悲の基点に基づいているかを改めて見直しました。すると驚くべき発見がありました。
例えば、最近始めた明慧ネットの記事の翻訳に関しては、同修たちへの不満から積極的に取り組んでいたことに気づきました。本来このプロジェクトでは校正を担当していましたが、最近翻訳グループの翻訳量が減少し、短い記事ばかりを翻訳する傾向があるのを見ていられず、自分が翻訳も兼ねて状況を改善しようと決意しました。
また、地元の同修が明慧ネットをあまり見ない理由の一つに、良い交流記事の翻訳が少ないことがあると考えていました。この考えは一見問題なさそうに見えますが、ここでも私の出発点は地元の同修や修煉環境への不満にあり、彼らがあまり精進しておらず、向上が遅いと感じていました。これは明らかに外を見て文句を言っているだけで、慈悲心に基づいていませんでした。
過去にメディアの仕事をしていた時も同様でした。「みんな名利に執着しており、スキルの向上を重視していない」「方向性が分かっていない」「レベルの低い記事は効果がない」といった否定的な考えを抱いていました。最終的には希望が見えず、自分で別のメディアやセルフメディアを始めました。当時は表面的に良い結果が出ていましたが、師父の新しい経文に照らし合わせると、明らかに慈悲心を欠いていました。なぜなら、私の基点は不満そのものだったからです。
神韻の宣伝に参加したときも同様でした。実際には良い結果を得ましたが、過程では常に他人を見下し、自分を誇示する心を抱いていて、慈悲心はほとんどありませんでした。
今になって悟ったのは、そうした見かけ上の成功が他の同修をさらに見下すことにつながり、自己満足に浸り、修煉が停滞する原因になっていたことです。
実際には、人の心にあるものがそのまま表に現れます。セルフメディアをやっていたとき、私の不善な一面が露わになりました。ある政治家を擁護する一方で、別の政治家が中共と結託している内幕を暴露し、それがメディアの責任だと考えていました。問題は、この「暴露」の背後に私の怨恨の心が隠されており、その心が番組制作の中でどんどん膨らみ、慈悲心が脇に追いやられてしまっていたことです。
師父が今回の新経文で心配されているのは、まさにこの現象です。師父は「大法弟子の責任は人を救うことですが、このまま長く続くと慈悲心まで失ってしまいます! それならまだ修煉者の状態ですか?」(『目覚めなさい』)とおっしゃいました。
私はメディアを離れました。そしてうちに向かって探し、政治への執着を少しずつ手放しました。今年初め、私たちの国の親中派の野党党首がテロ攻撃に遭いました。その党首の苦痛の表情を見たとき、以前のように怒ることはなく、党首が何らかの歴史的役割を果たすために苦労しており、そして大法の救いを待っているのだと感じました。
同じ頃、私たちの学法グループの同修の一人が、その政治家と会う機会がありました。しかし、その同修は慈悲心を持たず、批判的な言葉を口にしました。その後、腰痛に見舞われ、ほとんど動けなくなり、ベッドに横たわるしかありませんでした。私はその同修に会いに行きました。そして私たちは常人の政治に関与するべきではなく、すべての衆生に対して慈悲心を持つべきだと話しました。その同修が私の見解を受け入れると、すぐに健康を取り戻しました。
最近同修たちと交流して悟ったのは、名利心、嫉妬心、顕示心、歓喜心などの様々な執着心は、すべて、宇宙の衆生が集団的な社会関係の中で生み出すものであり、他人を見たり比べたりする中で生まれるものであり、すべて自我への執着の産物なのです。
遅ればせながら、残り少ない時間で必ず師父の教えに従い、怨恨の心を修めて取り去り、慈悲心を修めて育みます。自分の神の一面を呼び覚まし、どの同修、どの常人、どの生命に対しても慈悲心を持って接することを決意しました。