文/河北の大法弟子
【明慧日本2024年7月23日】私は辺ぴで遠い山村で生まれました。1994年に県の就業局(職業紹介機関)が北京のある大企業のために労働者を募集しており、私は応募して採用されました。こうして私は北京で働くことになり、後に師父が私が北京で法を得るように手配してくださったことに気付きました。
私は子供の頃から武術や気功が好きで、寺院に対しても特別な感情を持っていました。北京では仕事が楽で、1カ月に一週間しか働かないため、ほとんどの時間を天壇公園で武術やさまざまな気功を練習して過ごし、気功の本もたくさん買いました。
1996年、天壇公園で武術を練習した後に竜潭公園に行くと、多くの人が坐禅をしているのを見かけ、その和やかな光景にすぐに引き込まれました。大法の紹介文を見て、私はすぐに彼らと一緒に練習を始めました。すると、指導員が来て私の動作を修正してくれました。彼らが勧めた『轉法輪』を買って一気にその本を読み終えました。読むたびに涙が溢れ、心が揺さぶられ、時折声に出して読んでしまい、寮の人たちにも聞こえていました。私は探していたものを、ついに見つけたのです。それ以降、他の流派の気功や武術はすべてやめ、大法の修煉の道を堅く歩むようになりました。
しばらくして、私は故郷に戻り親戚を訪ねました。すると病気だった母がさらに病状が悪化し、目も見えなくなっていることを知りました。地元の県病院や田舎の診療所でも治らず、母は地元の気功教室に参加しようとしていましたが、その費用は一人40元でした。ちょうどそのとき、その気功を教える人が外出していました。母の考えを知った私は「お母さん、私は最近新しい功法を学んだのですが、とても良いものです。無料で教えてくれますし、お金もかかりません。村の人たちにも教えてあげられますよ」と言いました。結果、たくさんの人が集まり、毎日私は皆に師父の講法録音を聞かせ、1講ずつ聞いた後に功法を教えました。
講法を聞いている途中で、母は奇跡的にものが見えるようになりました。母は「薬を人にあげましょう。もう飲まないわ」と言いました。母は修煉を始める前、胆嚢炎で夜も眠れず、高血圧もありました。当時、母は死にたいと思うほど辛かったのですが、視力が戻り大喜びしました。数日後、母の血圧も正常になり、胆嚢炎も治り、すぐに健康を取り戻しました。
学法と煉功をしていた間に、何人かの天目が開きました。1人は自分の眉の間に大きな目がぱちぱちと瞬いているのを見ました。また、2人は目を閉じたまま別の空間の景色、ビルや亭台など美しい風景を見ました。数日間で、人々の体にも様々な変化が現れ、学びたいという人が増えました。私たちの村から十数里離れたところからも、人々は名声を聞いてやって来ました。法輪大法はまるで一つの明珠のように、遠くの山村を照らしました。
その時、県城で働いていた2人の叔母が私の母のことを聞きつけ、田舎に来て母に会いました。叔母たちも法輪功の修煉を始めました。修煉を始めた途端に叔母は法輪の回転を感じ、父もタバコを辞めて大法の修煉に入りました。
私は北京に戻り、実家で起こった出来事を北京の叔母に話しました。北京の叔母も迷わず修煉を始め、従姉妹も大法の修煉に入りました。2人の叔父も次々と法を得ました。当時、90歳の祖母が修煉を始めると、白髪の髪の根元から黒髪が生えてきました。
その後、私の姉、妻、子供たちも法輪功を学び、修煉の道に入りました。私の影響で、私たちの大家族全員が大法の修煉を始め、幸せで吉祥な生活を送るようになりました。
中国共産党が大法を迫害し始めた後、私は仕事の関係でA県城からB県城に引っ越しました。私はB県城に移って行くと、A県城で2人の同修がすぐに洗脳班に連行されました。A県城にいた頃、私は資料点の機械のメンテナンスを担当しており、他の小さな資料点やネット接続ポイントも手取り足取り教えました。機械の購入からシステムの作成まで全て私が担当していました。しかし、ある同修が圧力に屈して私のことを漏らしたため、A県城の公安人員が私の故郷の公安と連携して私を探し回りました。やがてB県城にいることが判明しました。
当時、私は店舗を引き継いでいて、かなり儲かっていましたが、別の理由で店舗を他の人に譲り渡しました。譲り渡した後、私が店舗にいなくなったあと、警官らは店舗を見つけました。警官らは子供の学校にも行きましたが、学校は協力しませんでした。本当に師父が計画的に私を守ってくださったのです。
この出来事が過ぎ去った後まもなく、父が脳出血で入院しました。父の入院は村の幹部たちも知っていたため、郷派出所や県の公安警官が再びA県城の公安と連携し、市内の病院に私を探しに来ました。その時、市の公安局(県の上級機関)の人員もいたようです。当時、私は病院の階上階下にたくさんの警察官がいるのを見て、彼らが何のために来ているのか分かりませんでした。父が入院した際、手続きをしたのは親族であり、父の名前を使わず、別の叔父の名前を登録しました。こうして彼らは情報を得ることができず、階上階下の部屋を調べても何も見つかりませんでした。警官らは直接親族の1人に電話をかけましたが、その親族は協力せず、安全に私を病院から連れ出し、再び病院に行かないようにしました。入院時に父の名前を書かなかったのも偶然ではないと悟り、再び師父の保護を感じました。
もう一つの出来事があります。当時、私はまだA県城から引っ越していなかったのですが、公安警官は誰かが明慧ネットにアクセスしていることを発見し、それが私の家の近くであることを突き止めました。しかし、私の家にたどり着くと信号が途切れ、それ以上は追跡できませんでした。警官らは長い間調査しましたが、見つけることができませんでした。
このことは、B県城に来た後、同修から聞きました。この同修はある警察官から聞いたそうです。同修は私が動揺することを恐れて、その時は話してくれませんでした。師父が私に守護の傘を下さり、私を保護してくださったのです。
師父が何度も私を危険から守ってくださったことに対し、言葉では感謝の気持ちを表現しきれません。師父の弟子に対する保護と苦心の配慮に、私は何度も涙を流しました。