寂しい心を修めて取り除く
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2024年10月3日】私は四人の娘の母親で、二人目の時に三つ子を出産しました。毎年、年末年始やお祝いごとがあるたびに、娘たちと婿、孫や孫娘など十数人が家に戻ってきて、一緒に遊びます。姉妹たちは会話を楽しみ、子供たちもみんな楽しそうです。彼女たちが食べたいものをリクエストすると、私はそれを作り、家族全員が和気あいあいとした時間を過ごします。しかし、彼女たちがそれぞれの家に帰ると、家の中が一気に静かになり、私の心は空っぽになり、寂しさが押し寄せてくるのです。

 娘たちがそれぞれ出産した後の産後ケアをしていたことや、孫の世話をしていたことを思い出します。彼女たちが子供を連れて外に遊びに行くとき、私は家に残って学法をしたかったのですが、結局行かざるを得なくて、孫の面倒を見なければなりませんでした。

 今では子供たちも大きくなり、大学に通っていますし、外で遊ぶときも私を連れて行かなくなりました。私が行きたいと言っても、誰も賛成してくれません。過去を思い返すと心が苦しくなります。心の中で不公平感、不満、文句、あらゆる人間の心が次々と浮かび上がってきて、ひどく泣いてしまいました。その後、内に探してみると、「これは情ではないか?」と思いました。

 師父は「情から派生した数々の執着心に、われわれは淡泊であるべきで、最後には完全にそれを捨てなければなりません」(『轉法輪』)と説かれました。

 また、子供たちが年末年始やお祝いごとに集まって遊んだり、どこかへ出かけたりするのはごく普通のことです。自分自身を振り返ってみると、賑やかな雰囲気が好きで、寂しさが嫌だという心がまた出てきました。そして、羨ましさ、嫉妬、恨みの心があることにも気付き、それを取り除こうと正念を発しました。そう思うと、心が落ち着き、子供たちのことを喜ぶ気持ちになりました。私はもっと学法をし、三つのことに時間を費やすべきなのです。

 法を実証し、衆生を救い済度する道のりでも、しばしば寂しさが生じます。コロナ禍の前は、真相を伝えたり、資料を配ったりする時に、同修と一緒に行動していましたが、パンデミック中、彼女は行かなくなりました。ここ数年は夜間に一人で資料を配っていて、主に工業地区で車のドアノブに掛ける形で行っています。行く前に正念を発し、数十冊を持って行き、1時間で配り終えます。ある日、帰り道で長い夜空を見上げ、行き交う車や人の流れを見ていると、また寂しさがこみ上げてきました。同修と一緒だったらどんなに良いだろう、一人では本当に孤独です。しかし、ふと考え直すと、師父がおられ、大法があるのだから、孤独ではないと感じ、寂しさが消えました。

 家に帰ると、自ずと無限の敬意と感謝の気持ちが湧き上がり、両手を合わせて空を仰ぎ、師父のご加護と、大法の救いに感謝しました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/6/2/478164.html)
 
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