遼寧省・韓東営さんが16年前に受けた迫害の体験
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 【明慧日本2024年10月11日】遼寧省海城市の法輪功学習者である韓東営さん(現在52歳前後、海城市中小鎮前小村の農民)は、16年前に海城市の警官に連行され、5日5晩にわたる拷問を受けた。頭部に電撃を受け、障害を負い、頻繁に痙攣を起こし、発作時には歯を噛み締め、目は虚ろになり、意識を失った。この間、彼は強制的に採血され、すぐに外で誰かが「血液型が特殊で、合わない」と話すのを耳にした。

 明慧ネットの資料によれば、2008年北京オリンピックの前、中国共産党政権は法輪功学習者(以下、学習者)を狂ったように逮捕した。当時、海城市でも多数の学習者が連行された。

 2008年6月27日午後2時過ぎ、海城市牛庄派出所の所長である連暁海や張駿など4~5人の警官が学習者・田宝偉さんの家に押し入った。ちょうど韓東営さんは、暖房器具を修理するために田さんの家に来ていたところを、警官は一切事情を聞かずに韓東営さんを連行し、中小鎮派出所の警官に彼の家を家宅捜索させた。警官は法輪功の書籍、コンピューター、プリンター、横断幕、孔明灯(中国の伝統的な穴あきランタン)などを押収した。海城市公安局の国保大隊は手柄を立てようと、この件をオリンピックと結び付けて報告し、中共公安部はこれを重大事件として扱い、速やかに解決するよう命じた。

 海城市の国保警官は、韓東営さんに対して、眠らせないという形の拷問を5日5晩にわたって行い、ほぼ毎日電気棒で全身を、頭から足まで、さらには生殖器や頭部までも電撃を加えた。また、吊し刑、虎の椅子、死人のベットなどの拷問を加えた。ある時、警官が百会穴に電気棒を当てたことで彼は意識を失い、3日3晩意識不明の状態に陥った。彼はほぼ3ヶ月間拷問を受けた。当時、留置場にいた人々は、韓東営さんは常に黒いフードをかぶせられ、片足を引きずりながら歩かされているのを目撃している。

 このような深刻な迫害の中で、韓東営さんはしばしば意識を失った。この間、国保は韓東営さんの家族から7~8万元の金銭を強奪した。韓東営さんはその後、1年の執行猶予付きの実刑判決を宣告された。自宅に戻った後、彼は頻繁に発作を起こし、歯を噛み締め、痙攣を起こし、目が虚ろになり、意識を失うといった拷問による後遺症に苦しんでいる。

 以下は、韓さんが自ら語った迫害体験の一部です。

 「2008年、私は遼寧省海城市公安局国保大隊の警官に連行され、頭部に電気棒による電撃を受けた。私に対する迫害に加わった主な責任者は楊松、李海華、高紅岩です。当時、高紅岩は7~8人の国保警官を率いて私の両手を背中で手錠をし、両足にも手錠をかけ、手と足の手錠を小部屋の中央の輪に繋げた。その姿勢は今でも忘れられません。横にもなれず、座ることもできませんでした。警官は私にズボン一枚だけにして、私が眠気を感じると、冷水を全身にかけられました」

酷刑演示:电棍电击

電気棒による電撃(実演)

酷刑演示:死人床(呈“大”字型绑在抻床上)

死人のベット(実演)

 3~4日後、彼らは私の血液を1本採取した。すぐに外で誰かが『血液型が特殊で、合わない』と言うのが聞こえた。

 ある日、警官の1人が私に言った。『お前を、電気で痙攣させてやるぞ』と。その日、私は目隠しをされ、鉄の椅子に座らされ、手足全てを拘束され、全く身動きが取れない状態にされた。警官は電気棒で私の腹、腕、太ももの根元、太ももの関節部分、そして最後には生殖器と頭を電撃した。頭部に電気ショックを受けた時、私は金色の光を感じ、気を失った。目が覚めたのは3日後の夜遅くで、私はベッドの上に横たわっており、4本の点滴が繋がれていた。私を看護していた人が『お前、3~4日も昏睡状態だった。この人たちは本当にひどい、脳と生殖器を電気で壊したんだ』と言った。

 国保の警官は私が目を覚ましたのを見て、私を留置場に送ったが、受け入れを拒んだ。『こんな状態の人を受け入れたら、誰の責任になるんだ?』と留置場の人が言ったが、高紅岩は『大丈夫だ』と言い、国保は『610弁公室が責任を取る』という責任書を提出して、留置場側はようやく私を受け入れた。私は入所した最初の夜に痙攣して意識を失なった。目覚めた後、同じ監室にいた人が私に聞いた。『お前、痙攣の病気でもあるのか?』と。私は『ない』と答えた。彼は『お前は苦しさのあまり転げまわり、口から血を吐いた。歯で舌を噛んで、舌が切れていたんだ』と言った。

 私は留置場から帰宅したその夜にも痙攣を起こし、意識を失った。当時、家族はどうすればいいか分からなかったようで、その後も、定期的に痙攣を起こし、その度に全く記憶がなく、街中を歩いていても誰のことかも認識できませんでした。毎回、回復するのに半月ほどかかり、私は仕事を探しましたが、責任が持てないからと言われ、誰も私を雇おうとしませんでした。約1年後、妻は耐えられなくなり、離婚を申し出た。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/9/30/483396.html)
 
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