スイス法会:内に向けて修め 自分の根本的な執着を見つける
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文/スイスの大法弟子

 【明慧日本2024年11月12日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 長年にわたり修煉をしていますが、真の修煉についての理解はあまり深くありません。最初にスウェーデンに住んでいた頃、比較的に精進していて、真相を伝える活動に参加したり、煉功拠点に通ったりしていました。しかし、スイスのチューリッヒに引っ越してからは、修煉環境が大きく変わりました。あまり精進できず、学法も深まらず、特に集団学法の際は、法を読むことが任務をこなしているように感じていました。また、発正念の際には、なかなか集中できず、意識がはっきりしないことが多くなりました。人を助けたいという気持ちはあり、様々な法を実証する活動に参加しましたが、それは同修と一緒にいることが好きだからであって、自分の修煉への理解や動機から来るものではないと感じていました。その結果、衆生を救うという善の心も次第に薄れてきました。

 過去を振り返ると、私はしばしば他人の期待に応える形で行動し、あるいは時間のプレッシャーの中で任務を完成しました。自分の煉功する目的は、健康を維持するためでした。外部からの「圧力」がない場合は、例えば名誉や健康に関する心配を感じないと、受動的になってしまうことが多かったです。

 私はこの行動の根源を深く掘り下げようとし、本当の自分と苦しみをなめる意味に対する理解が、最初から浅薄な唯物主義や無神論教育に抑圧されていたことに気づきました。より高次元の生命を信じず、経験していることや直面している困難の背後に意味があるとは思えないため、この受動的な状態が生じているようです。まるで自己逃避をしているかのようです。

 生命の意味や創造の価値も感じられず、神が本当に存在するのかも確信できませんでした。これらのことは宗教の教義や映画を通じて知りましたが、どちらかと言えば童話のように感じます。神性や生命の不滅に対する深い信仰心が欠けていました。このことを内心から理解できれば、真に修煉する原動力が生まれるでしょう。

 過去には、表面的な良い成果に励まされ、より高次元の指導がなかったために生活が浅薄になり、「良いこと」が社会や家族、友人の見解に依存していました。私が抱える苦しみや病気は、厄介なことやウイルス、災いと見なされていました。それは私のせいではないので、私には責任がないという観念が形成しました。

 子供の頃、父の怒りや厳しい言葉を恐れていて、間違いを犯すことへの恐怖が育まれました。

 父が私のそばにいなくなった後も、認められたいという思いが残り、他人に依存して価値を感じるようになりました。徐々に自分自身や本当の気持ちを放棄していったのです。

 私は主にスポーツや知恵、良い外面的な行動を通じて自分の価値を証明しようとしていました。学校では、知識を学ぶことは良い成績を取るためであり、競争力や見せびらかすための資本となると教えられましたが、その背後には自分が十分でないことや他人に拒絶されることへの恐れがありました。このことは、より優れた人や人気のある人に対する嫉妬を引き起こしました。最終的には、これらの劣等感や間違いを恐れる気持ち、他人への依存が私の生活を苦しめ、ますます内向的になり、安全感を失い、喜びや信頼を失う結果となりました。

 師父は『轉法輪』の中で、「嫉妬心は中国ではきわめて強烈に現われており、すでに日常茶飯事になっていて、自分でもそれと感じられないほど強烈なものとなっています」とおっしゃっています。

 修煉を始めたとき、私はこれらの感情がどれほど深く隠れているのか、私の行動や思考にどのような影響を及ぼしているのか、そしてそれがどのように私の誤った行動を認識することを妨げ、無意識的な感情と向き合わせることを阻んでいるのかを理解するのに長い時間がかかりました。これらの感情は今でも真の自分を支配しています。今、私は嫉妬心が自分の価値を認識する能力を低下させ、自分の神性との隔たりを生んでいると分かりました。

 私の視点では、共産主義は私たちの自己価値観や生活への前向き、神への信仰を破壊しました。これよりも危険なことはないでしょう? それはまた、恨みや苦痛、怒りといった他の多くの感情を引き起こします。

 このことを思うと、幻想の中に生きるすべての人々に対して憐れみを感じる一方で、師父には非常に感謝しています。法輪大法の修煉者として、私たちは決してあきらめず、自らの使命を果たさなければなりません。なぜなら、師父は私たちに生命の真の意義を示され、より多くの人を救う手助けをしてくださっているからです。

 学法それとも「読むだけ」

 最近、私は法を読むことに対してもっと真剣になりました。グループで読む際、正しく滑らかに読もうとしたり、より高い認識を求めたりする心が働いていることに気づきました。しかし、今思えば、その裏には間違いを犯すことへの恐れがあり、真の平静を保つことができず、法を深く理解することができずに「読むだけ」の状態に陥ってしまっていました。

 一人で法を読むと、その状態から解放されるのですが、すぐに眠くなってしまいます。自分の執着を認めたとき、注意力が高まり、法が私の修煉をどのように導いているかをより理解できるようになりました。

 学法の際に正念を持って修煉できなければ、法を読むこと自体が私にとって役に立たず、逆に後退することもあると気づきました。この無意識の恐れの状態で読み続けるのは、まるで執着の中からその執着を取り除こうとするようなもので、変化は非常に遅く、過去に洞窟で修行していた僧侶たちのような状況です。

 師父は「特に法の勉強のとき、皆さんは必ず真剣に勉強しなければなりません」とおっしゃっています。(『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」)

 私は、師父が私たちに法に溶け込むように教えられていることを理解しています。頭がハッキリしていて、尊敬の念と正念を持って真心で修煉する時こそ、法が現れてくださり、私が返本帰真することができるのです。

 常人社会の学校環境で娘を教育することについて

 約6カ月前、娘の右足の親指が感染し、症状が改善しなかったため、学校で体操や古典舞踊の授業に参加できなくなりました。私たちは足浴や草薬でこの炎症を治療しました。数日後、娘の足の親指は回復し、再び普通に踊ったり遊んだりできるようになりました。

 しかし、これが修煉とどのように関係しているのでしょうか? 私には、娘の感情が不安定である理由が見えます。時々、私たちの支えが不十分だと感じ、自立できないことに悩んでいるのです。もちろん、この炎症も業力の表れかもしれません。表面上から見ると、娘には親の愛情が足りないとして現れています。

 妻は看護師で、仕事から帰ると疲れていることがよくあります。最近、妻の股関節の痛みもひどくなっています。私も仕事をしているため、娘の世話をするのが難しく、積極的に遊んであげたり教えたりすることができませんでした。そのため、私たちはよく娘に自分で童話の録音を聞かせています。

 時々、娘は私の言うべきことを聞きたがらないことがあります。私はよく拒否されていると感じ、それは私が批判を好まず、尊重されたいという思いに関連しています。しかし、大法修煉者にとって、批判は良いことであり、内に向けて探すことを促し、自分の問題を見つける手助けになります。娘とのこれらの「問題」を通じて、私はより謙虚になり、他人の批判に耳を傾けることを学びました。それは、他人に認められたいという執着に気づかせてくれました。

 私は子供の頃から神とのつながりを失っていましたが、修煉者として批判への恐れを手放すことで、逆に自信と神性を取り戻すことができました。その過程で、私は徳を積み、業力を消すこともできました。この苦しみの感覚は、実際には私が放下しようとしている恐怖心に執着しているから生じているのです。

 娘は時々迷いを感じることがあり、これは私が受け入れなければならない事実です。特に今の時代、学校は子どもたちの生活の重要な一部となっています。娘は友達や学校の教育方法の影響を強く受け、しばしば競争意識を抱いて誰が一番かを気にするようになります。また、女の子たちは美しさや素敵なものを持ちたいという願望を持っているため、嫉妬を引き起こしやすいです。この問題を解決するために、私たちはよく一緒に法を読んでいます。

 娘がどれだけ理解できているかは分かりませんが、ある日、娘は帰宅後に「学校の子どもたちには良い面もあれば悪い面もある」と本当に理解したと言いました。これを聞いてとても嬉しく思いました。娘がトラブルに遭うとき、私と妻は娘を落ち着かせ、感情を調整し、どのような執着があるのか、体にどのように現れているのかを一緒に探しました。私たちはしばしば、徳と業がどのように変化し、自分の行動がどのように影響を与えるのかを思い出させます。また、時には伝統文化に関する物語や古典バレエ、ポジティブな価値観を持つ映画を見せたりもしています。

 法は私の根深い物質的観念を打破して下さった

 『スイス法会での説法』を学ぶ中で、学校で教えていること自体が一種の宗教であり、科学宗教であると気づきました。しかしそれは非常に巧妙に隠されており、邪悪な勢力が人間性や神への信仰を破壊しようとしています。

 修煉を始めた頃、私は強い信念を持って法に導かれていると感じていました。しかし、時間が経つにつれて、その信念は薄れていきました。科学的な観念が私の思考の中にどれほど深く埋もれているか、気づかなかったからです。師父が説法の中で仰っているように、科学は私たちに見えるものだけを信じるようにしますが、修煉はその逆です。見る前にまず信じなければなりません。私は数年をかけて法に対する揺るぎない信念を取り戻しましたが、それは正念を持って法を読まなかったことも一因です。

 師父は『轉法輪』の中で「人間は最も貴いもので、万物の霊長です」と説かれています。

 私にとって、これは人間だけが万物の霊長になり、神性を持つ創造者になる能力を持っていることを意味します。これは神の慈悲の表れです。

 煉功と健康の獲得について

 煉功する際には、どのような状態でいるべきなのでしょうか? 長い間、私は煉功中に病気を治したり健康を得たりすることを考えていました。これは、私の内心に病気や痛み、死への恐れがあり、身体に執着していたからです。

 今、私は人の考えが実は病気の背後にある執着であり、その執着の背後には常に苦しみへの恐れがあることを理解しました。この恐れは執着そのものに対する恐れですが、真の自分ではありません。私がそれを認め、信じることで、身体は不均衡になり、時間が経つと病気を引き起こすことになります。なぜなら、身体は常に私の思考に従い、それを反映するからです。

 師父は「気功は修煉にほかならない」とおっしゃっています。(『轉法輪』)

 しかし、私は長い時間をかけて、修煉は身体を治すことではなく、心を修めることであることを理解しました。煉功する際は、常に求めず執着を放下した平静な状態でいるべきです。

 病気の背後にある執着に気づくことができたとき、私はもはやどんな症状も恐れません。それは、業を返すことや神に近づく修煉過程の一部であると受け入れます。実際、病業の現象は良いことであり、これは師父からの悟りでもあります。このことを真に理解することで、私は恐れを手放し、心性を高めることができるのです。大法が私にこの不均衡を経験させ、執着を認識し、取り除いて下さったのです。

 多くの場合、私の喉には業力が溜まっています。煉功中、喉の筋肉をリラックスさせるのが難しいと感じ、時には呼吸が止まりそうになることもあります。おそらく、喉にあるのは、自分の考えを言うことへの恐れ、他人を傷つけることへの恐れ、恥をかくことへの恐れ、愚かなことを言ったり間違えたりすることへの恐れから来ているのでしょう。恐れているとき、身体が反応し、呼吸を止めたり、スムーズに呼吸できなくなったりします。この反応は、私が恐れを見つけて取り除くまで続くのです。

 もし私が間違いを犯すことが問題ではなく、修煉の一部であると受け入れることができれば、再びリラックスし、呼吸もスムーズになります。自分の執着や間違いを認識することで、他人に対する同情心も高まります。私たち皆が間違いを犯すことを理解すると、他人を批判することがなくなります。私は冷静で理解のある態度で他人に接するべきです。

 私の慈悲に対する理解

 真の修煉者はどのような状態でしょうか? 師父が最近の経文『目覚めなさい』で言及された「善意と愛の心」は、私たちの自然な状態であり、真の自分の本性だと理解しています。

 師父は『精進要旨』の「誰のために存在するのか」の中で、「実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです」と説かれています。

 この純真さは私たちが生まれ持った本性ですが、現在の社会の価値観や道徳の堕落の中で、私たちは幼い頃からそのつながりを失ってしまいます。

 日常生活の中で、家で仕事をすることで、娘と多くの時間を過ごすことができます。娘の純真な本性が、友達と出かけたり学校に行ったりする際に時々消えてしまうことに気づきました。私は娘を守るために努力していますが、もちろん最も良い方法は、娘自身が純真な本性を見つけることです。

 父親として、私は子供を非常に愛しています。この愛は純粋で、思いやりに満ち、無条件ですが、私の執着や観念が影響し、時には自分の感情が混ざってしまいます。

 修煉の初めに、私は家庭への愛を放棄すべきだと誤解していましたが、それは法の曲解でした。実際には、そのような親の無条件の愛を全ての人に伝えるべきだと気づきました。師父も私たちに敵を愛するよう要求されています。私は、この愛を全ての生命に広げることを学ぶ必要があります。

 師父の法は、私と娘との正しい関係を理解させてくれました。また、私自身の善意を見つめ直すきっかけにもなりました。私は「もし私がもっと良い父親であれば、娘はもっと私に優しく接してくれるだろう」と思っていました。しかし、しばらくして気づいたのは、実際には娘を怒らせたり悲しませたりすることへの恐れから来るものであり、他人の感情に直面することを恐れていたのです。自分が怒った後の結果を受け入れられない執着がありましたが、通常は衝突が起こったときにしかそのことを自覚しません。

 困難に直面したときだけ修煉を思い出すべきではありません。まるでプレッシャーがあるときだけ修煉するかのようです。自分の執着心を見つけるために積極的に取り組むべきであり、他人とのトラブルが生じたときは、それがまさに警鐘となります。

 この特別な時期に修煉できることに感謝し、法が私に多くの執着を認識させて下さったことに感謝しています。これらの執着はしばしば恐れに関連しており、私はそれを手放す必要があります。これが神に近づく唯一の道であり、修煉には近道はありません。

 師父の救い済度のご恩に感謝いたします!

 愛する同修の皆さん、ありがとうございます!

 (2024年スイスドイツ語圏法会発表文章)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/10/30/484369.html
 
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