文/カナダの大法弟子
【明慧日本2024年11月18日】ここカナダの地元ではアメリカの多くの都市と異なり、神韻のチラシはドアノブにかけて配布する必要があります。今年はすでに街中で神韻の広告がされ、テレビ、ラジオ、ネット広告を次々と目にします。多くの大法弟子は最大限尽力し、朝早くから夜遅くまでショッピングモールでの宣伝を頑張っています。多くの古い修煉者は集中的に発正念をしていますが、依然として活動状況には大きな障碍があります。表面上は人手や物資の不足が原因ですが、実は各自の修煉状態の反映なのです。
冬の寒風は厳しく、雪で道が塞がれることもあります。通常、ひとりの修煉者が車で他の修煉者を事前に計画された区域にある住宅地に送り、チラシを配布します。チラシを単にドアに掛けるだけのことですが、別の空間では無数の邪悪が虎視眈々と隙を狙っているため、途中で発正念をし、妨害を排除する過程を重視する必要があります。チラシをドアに掛けながら何人かの女性同修は雑談を始め、正念が緩んでしまうことがあります。口を修めるだけでなく、心を修めることが重要だと思います。真に偏見や人との隔たりをもつ心を捨て去り、心を清らかで純粋にすることで、全ての生命に対する寛容と慈悲が生まれ、救い済度の目的を達成できるのです。
地元では、実際に活動できる修煉者は3分の1にも満たない状況です。活動を数人の古い修煉者にのみ長期間依存しており、これらの修煉者は役割を多く担い、大きなプレッシャーに晒されています。車と運転手が不足しており、数人の運転手が病業や事故の妨害を受けています。残り3分の2の修煉者は、今なお外に出てきていません。表面上は車がない、運転できないというのが理由ですが、内面的な原因としては、苦しみや疲労、寒さを恐れる心が、態度に出ているにすぎません。真の原因としては、世俗の些細なことに囚われ、偏見や観念に縛られ、同修との間の摩擦に悩まされているのです。さらに深く見ると、神韻が人を救い済度する意義を理解しておらず、修煉者として持つべき基本的な態度が欠如しており、自分が担っている偉大な使命を認識していません。
日常生活に追われ、世俗の心に縛られ、学法が形だけになって心に入らず、身も心も神聖な状態には達していないのです。これが修煉者が精神的に向上できない原因です。
長い間、地元の修煉者は二つのグループに分かれていました。一つは佛学会を中心とした修煉者を主とするグループで、もう一つは過去にプロジェクトでミスを犯してグループ内での役割を失うことになった修煉者を主とするグループです。大グループ(佛学会中心グループとしたグループ)に定期的に参加する修煉者は、地元の修煉者の約4分の1の人数に過ぎません。大グループで学法が終わると、数人の責任者が現在の活動状況を報告し、心性の交流をする時間はほとんどありません。たとえ心性の交流をする時間があったとしても、会場は静まり返り、誰も発言しません。指名されても、修煉の心得を共有しようとする同修はほとんどいません。しかし、家に帰ると親しい同修とは小さな集まりを開いて話をしているのです。ある古い修煉者は自分が大グループに行きたくない理由を非常に真摯に話してくれました。彼女が大グループで交流したくないのは、自分の『過失』を法理に照らして話す必要があるからです。交流の場で話すと、その話が広まり、同修間の茶飲み話のネタになってしまうし、後ろ指を指されたり、笑いものにされるのが嫌だというのです。彼女は、結局のところそれは名誉を守りたいという保身の気持ちから来ているという根本的な原因を見つけました。
多くの中国人修煉者は中国共産党(以下、中共)が作り上げた圧力の強い社会環境で育ち、言い方を間違えると、それに尾ひれがついて広まってしまうことを恐れて、互いに強い警戒心を抱くように無意識のうちにされてきました。ですから、言葉や行動には慎重にならざるを得ません。この態度の背後には、傷つきたくない、損をしたくないという強い自己防御の気持ちが隠れているのです。そのため、『人に会えば三分しか話さず、全てをさらけ出すことはない』という心境になってしまうのです。
修煉者の多くは難民申請をしたこともあって、日常的に互いを英語名で呼び合ったり、名前の漢字に一字を加えたり減らしたりしてつくった仮名を使っています。ですから修煉者は大抵英語の名前を持っていますが、彼らの実際の英語力は初級程度であり、西洋文化についてもほとんど知りません。また、多くの場合英語の人名には、由来する歴史、聖徒の名、神、祝福の意が込められているものですが、その深い意味を全く知らずに使っています。
同修たちの多くは、海外に出た後に名前や国籍を変えましたが、その都市や国、文化をきちんと理解しようとはしません。何年経っても、過去の経験に基づいて行動し、同じ中国出身の人たちとしか交流をしません。意見の違いが生じれば、争いが絶えず、言葉が激しくなり、心は落ち着きません。中国の修煉者の間では依存心が強く、香港や台湾の修煉者との接触もあまりありません。多くのベトナム人修煉者が長年地域に根付いており、実際には彼らからその地について学ぶことができるはずです。
また彼らは中国の伝統的な中庸の概念を長年理解せず、かといって西洋社会に溶け込むこともしません。彼らは考え方を根本から変えようとはせず、他人の立場で物事を考えることもしません。中共の文化に浸り続け、自分の態度が西洋社会の主流のそれとは異なっていることに気づきません。物事を党文化の観念や習慣によってうまく運ぼうとし、せっかちで、ひとつのことにこだわりすぎて柔軟な対応ができない傾向があります。他人の困難を前にしても黙って見ているだけで、困難に遭っている本人のいない場所では面白おかしく話すことがあります。これも人心の作用であり、自分が他人よりも立ち場が上だと思い込んでいるのです。
多くの病業を経験している同修に対しては、善意を持って接するべきです。誰もが修煉の途上にあり、輔導員も人間であり過ちを犯すこともあります。輔導員の過去の過ちばかりに目を向けて、消極的な心で協力しないのはよくありません。修煉者がプロジェクトを初めて行う際は、試行錯誤しながら学んでいくものです。同修の不足に気づいたら、善意を持って指摘し、悪に悪で対処しないようにしましょう。人はそれぞれ根基や悟性が異なり、物事のやり方や理解の深さも異なります。この違いに配慮できるようなバランス感覚が重要です。もちろん、大浪淘沙(大きな波が砂を洗い流すように選り分けられる)されることは分かっていても、追いついて行けない人が多くいることは承知しています。
中国は1960年代から1990年代初頭まで計画経済を実施し、ほとんどの事業が国営企業や大規模共同体でなされる中で人々の考え方には絶対的な平等主義が養われたため、多く働けば多く得るという思考が欠落してしまいました。西洋人が自分以外の人に対しても真に祝意を持つことができる一方で、中国人修煉者は表面ではにこやかに振る舞いながらも、劣等感を味わい、不平等を感じることがあるのです。
中国の、大飢饉による極貧の時代から2000年代の経済成長とグローバル化の時代に至る潮流は、同時に、計画経済の厳格な管理体制から表面的管理緩和と虚偽の繁栄へ至る流れでもありました。中国人の三世代間の認識には大きな開きがあり、これは旧勢力が衆生が法を得ることを阻止することの難度を意図的に高めた結果なのです。他方、西洋諸国は第二次世界大戦後、安定した経済成長を遂げ、中国ほど三世代間の認識に開きがなく、その認識の継承は穏やかになされています。
学習して自己を高めることと物事を行うことは矛盾しません。多くの中国の古い修煉者は、常に時間が足りないと感じ、両立が困難だと考えています。問題を一つ一つ切り離し分断して、一面的に見てしまうためです。敬意と謙虚さを持って初めて、自らを低くし学ぶことができ、神も知恵を与えてくれるのです。中国の民間伝説に、『神足通』という神通力があります。この神通力を持つ者はゆっくり歩いているのに、後ろから来る人がどんなに走っても追いつけません。もし心が浮ついて目先のことに捉われていれば、自ずから長期的な計画を立てられず、低レベルで長く停滞してしまうのは必然です。多くのことができているようでも、その質は高くないのです。つまり、目先の成果にとらわれず、長期的な目標に向かっていくためには、修煉において心の状態を安定させることが重要なのです。
神韻会場で前列に座る観客の中には、スマートフォンをいじったり、電話をしたり、口笛を吹いたりする人がいますが、これらの態度は神韻が求める品格に合致しません。もし師父が救おうとなさっている人が座っているのでなければ、たとえその座席が埋まっていたとしても目的を達することはできません。来るべき人が来て初めて、その人に対応する遥か遠くの巨大な天体の衆生を救うことができるのです。
西洋人は一般に、仕事と生活のバランスを重視しており、退職も人生で迎える春夏秋冬の中の一場面だと捉えています。そして退職後にもらう年金は、現役時代の働きの成果であるとともに当然の権利だと認識しています。時間を旅に使うなどして、これまでよりも自分のための時間を多く持つことができるのが引退後の人生です。ですからその余裕ある時間の中で新しい修煉者に対して辛抱強く質問に答え、探求を奨励し、親が子にするように忍耐強く教える、というようなことができるのです。対して中国の古い修煉者は、仕事を引退した後は社会の重荷になるという考えを多くもっています。そのため、さながら現役時代のように大法のプロジェクトに没頭し、常に忙しく、睡眠も少なく、緊張した生活を続けているのです。学法し心を修めることこそが向上の根本であることを認識せず、周囲の人との交流範囲も限られています。
(続く)