中国法会|自我を放下することを学び大法の威徳を現す(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年11月28日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 第21回明慧ネット中国法会が予定通り開催され、師父の広大なる慈悲に深く感謝申し上げます。精進している他の同修には遠く及びませんが、慈悲深い師父が私に対して、より多くの心血とご苦労を注いでくださっていることを、より深く感じています。修煉の中で自我をどのように放下し、大法の威徳をどのように目の当たりにしたのかについて、自身の体験をまとめ、師父へのご報告として、そして同修のみなさんとの交流のために、ここに記します。

 一、「自我」の根を掘り起こす

 私は今年62歳です。教師を長年務めてきたため、党文化の影響を深く受け、自分が正しいと思い込み、外へ向けて探し、他の人のことを直そうとする悪い癖がついていました。まるで「相手のことを良くするため」のつもりで、同修にあれこれ言っていました。しかし、それは強い「自我」を押し付けているだけで、同修を傷つけ、自分自身の成長の機会を逃していました。

 師父は「これに対して、われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉がきわめて速いのです」(『轉法輪』)と説かれました。

 この法を深く理解した時、私はまるで目覚めたかのように感じ、修煉の方法が分かったような気がしました。その後、何か問題に直面しても、内に向けて探して自分自身の問題点を意識することで、難関を乗り越え、次元を向上させることができました。まさに「道はシンプルで解決しやすいものである」ことを実感しました。

 これは私がある次元で悟ったことですが、自分の理解をあたかも公式のように他の同修、特に難関を乗り越えようとしている同修に押し付けていました。例えば、以前同修のYさんとその母親が重い病業が現れていた時、私は彼女たちの根本的な原因がどこにあるかが分かっていると確信し、大法の修煉が人心を真っ直ぐに指すという法理に基づいて交流し、内に向けて探すように促し、師父の説法を一文一文読み聞かせ、彼女たちが自分たちの執着に気づくことができるように努めました。しかし、その結果、彼女たちは強い反感を示し、私たちの間に溝ができてしまいました。私は、彼女たちがその時に最も必要としていたのはねぎらいと励ましだったということを考慮しませんでした。私の行動は、他人に自分の考えを押し付けることであり、彼女たちにストレスと心の傷を与えてしまいました。

 また、同修のHさんが病業の関に直面した時も、私は同じような対応をしました。別の同修が私に「お姉さん、あなたの言うことは間違っていないけど、背後に何かがあるように感じます」と言ったことがあります。私が「どこが?」と尋ねると、同修は自分で考えて答えを見つけるようにと言いました。しばらくして、同修はHさんの状態について私に「その人は天目が見えているんだから、あなたがあれこれ言う必要はないでしょう。あなたはまるで道化師のように振舞っている」と言いました。同修の言葉はもっともでしたが、私はそれを素直に受け止められず、むしろ同修は滑稽だと思いました。

 私は「師父は『他の法門の誰に見てもらってもいけないばかりでなく、同じ法門の弟子に見てもらってもいけません。そもそも誰も言い当てることはできません』(『轉法輪』)と説かれました」と言いました。そして、私は「彼に法に則って自分自身を修煉するようにと言っただけなのに、どうして間違いになるのですか? これは法を師とすることではないのですか?」と言いました。私は相変わらず外に向けて探しており、師父の法を用いて他人を修煉させようとしていました。しかし、自分自身のどこが間違っているのかを深く考えようとはしませんでした。

 その後、師父の按排で、私は新しい小さなグループに加わることになりました。そのグループのメンバーは皆、法をしっかり学び、自分をしっかり修めることを重視していました。私たちは一緒に大量の法を学び、互いに励まし合いながら法を暗唱し、最終的にグループで法を暗唱するようになりました。比して学び比して修煉する中で、皆の心性は急速に高まり、協力して真相を伝え人を救う活動に取り組みました。特に、中共ウイルス(新型コロナウイルス)のパンデミックが発生して以降、時間の大切さを痛感し、人を救うことが急務であると認識しました。私たちは毎日、三つのことをしっかり行うことに全力を注ぎ、師父の要求を行うために尽力しました。

 法を暗唱することで、学んだ法を心に深く刻み込むことができ、自分の不足している点に気づきやすくなりました。師父もまた、私に啓示を与えてくださいました。ある日、同修が私に言った「まるで道化師のように振舞っている」という言葉が突然頭に浮かび、2、3日ずっとその言葉が気になっていました。同修が言った「背後に何かがある」という言葉、一体それは何だったのでしょうか? Hさんと交流していた時の自分の様子を振り返ってみると、それは「自我」だったと気づきました! 「愛嬌を振りまく道化師」というのは、まさに「自我」のことではないでしょうか? それは「偽りの自分」であり、自分を実証したいという心で演じていたのです。

 私の心は打ちひしがれ、恥ずかしくて顔も上げられませんでした。どうしてこんなもの(訳注:背後にある何か)に操られてしまうのでしょうか。修煉とは、自分の自我を修めて取り除くことであるはずなのに、私はそれを他人に向け、他人を変えようとし、その結果、トラブルが生じているのに、反省することすらしていませんでした。一体どうすれば向上できるのでしょうか。まさに、人心が修煉の邪魔になっていました。

 内に向けて探してみると、自我や、他人に自分の考えを押し付けること以外にも、闘争心、顕示心、歓喜心など、様々なよくない心を持っていることに気づきました。また、人の悪口を言ったり、善意の指摘に対して言い訳をしたりするなど、悪い習慣も多くありました。これらのよくない執着心、悪習、観念といったものの根源は、党文化にあると気づきました。党文化の目的は、常に自分たちが正しく偉大であると証明することでした。中国人は生まれながらにしてそのような環境に置かれ、体系的な洗脳や訓練を受け、歪んだ価値観を植え付けられました。その結果、言動がまるで道化師のようにぎこちなく、本当の自分を見失っていました。

 私はこれらのよくない物質を絶え間なく排除し続けました。「共産党についての九つの論評」の動画を見たり、音声で聞いたり、原文を読んだり「共産主義の最終目的」の原文を読んだりすることで、根源にある邪霊、毒害、そして歪んだ価値観を根底から取り除きました。自分の意念や言動を全て真・善・忍という価値観に合わせ、真・善・忍と同化させました。私は理性的に、真剣に、そして明確な目標を持って修煉し、本来の自分に戻りたいと考えました。

 (続く)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/8/484445.html
 
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