——師父について家に帰る道を歩む
文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年11月29日】私は今年68歳で、1996年に修煉を始めました。法を正す時期の大法弟子として、私は真相資料の配布、横断幕の掲示、大法を中傷する看板の撤去、真相資料の郵送、真相シールの貼り付け、そして小規模な協調作業などを行ってきました。以前は1人で資料を配布していましたが、その後は同修と協力して農村部にも資料を配布するようになりました。現在は、面と向かって人々に真相を伝えることに力を入れています。自分の修煉過程を振り返り、最初は資料の配布を恐れていた状態から、大規模に配布を行うようになった過程のいくつかの出来事を、師父にご報告し、同修のみなさんと共有したいと思います。
修煉を始めた時は1人で修煉していましたが、後に学法グループに参加し、とても刺激を受け、人を救うプロジェクトにも参加したいと思うようになりました。同修が資料を配布しているのを見て、私もやってみたかったのですが、怖くてできませんでした。同修と交流すると「何を恐れているのですか? 本当に怖いなら、自分の家のドアに貼ってみればいいのです」と言われました。私は勇気を振り絞り、資料を持って家のドアに貼ろうとしました。その時は手が震え、全身が震え、手のひらと足の裏には汗が滲み出ていました。何とか貼り終えると、すぐに後ろや両側を見て、廊下を人が通っていないかを確認し、慌てて剥がして家の中に持ち帰りました。家に帰ってからも心臓がドキドキして、しばらく落ち着きませんでした。しかし、私は心を決めて、必ず資料を配布して人を救おうと心に誓いました。師父が私の恐怖心をほとんど取り除いてくださったので、私は外に出て資料を配布し始めました。そして、面と向かって人々に真相を伝える段階までたどり着き、今でも時々配りに出かけます。
私は方向音痴で、東西南北がわかりません。いつも師父が導いてくださり、行くべき場所へ連れて行ってくださいます。私の心にはただ一つ「師父の親族は私の親族」という思いしかありません。全ての衆生に真相資料を見てもらい、真相を理解してもらい、真相を伝え、大法の救い済度を得てもらいたいと思っています。私は自転車に乗って資料を配布していますが、ある時、配布を終えて自転車が見つからなくなってしまい、とても落胆していました。すると、銀色の光を放つ自転車が目に入りました。よく見ると、それは私の自転車でした。その後も、配布後に自転車が見つからない時は、必ず銀色の柔らかい光を放っていました。また、一年中履ける網目のサンダルを愛用していて、冬でも寒くなく、夏でも暑くありません。もう10年以上履いています。これは師父から授かった法器だと感じています。
一度同修と交流した時、私には歓喜心が起きました。資料配布はいつも順調だと話しました。ところが、実際に配布しようとした時に危険な状況に陥りました。私は階段を最上階まで上がり、ちょうど真相資料を取り出そうとした時、ドアが開き、若い男性が出てきて、私に何をしているのかと尋ねてきました。私は間違えてドアを叩いたのだと言って、その男性を無視しました(その時は油断していた)。そして、別の階へ移動して配布を続けました。配布を終えて階下へ降りてきた時、その男性がドアのところで私を捕まえ「警察だ」と叫び、私を警察署に連れて行くと言い出しました。そして、もう一方の手で私の写真を撮ろうとし、電話をかけ始めました。私は心の中で「私は師父に守られている、中国共産党(以下、中共)の言うことは聞かない」という一念を発しました。すると、写真はうまく撮れず、電話も繋がりませんでした。そして結局、写真も撮られず、電話も繋がらないという結果に終わりました。
その男性と私は十数分間、引っ張り合いや押し合いをして、結局マンションの外の道路に出てしまいました。男性が自転車を後ろに引き、私が前進しようとする状態でした。すると突然、男性は勢いよく私を引っ張り、私と自転車を道路の中央に投げ飛ばしました。その時は何も考えられず、ただ「この人はなんてかわいそうな人なのだろう」と思いました。私は「何をするんですか!」と男性に言いました。道路の脇には涼んでいた人たちがたくさんいて、その中の1人が「あの人は何をしているんだ?」と言いました。皆がこちらを見ていたので、男性は手を離し、私は自転車に乗って立ち去りました。家に帰って服を見ると、服もズボンも破れ、膝には長さ9センチ、幅3センチの切り傷があり、血が出ており砂がたくさん付いていました。振り返ってみると、師父がおられなければ、もっとひどいことになっていたかもしれません。それ以来、決して歓喜心を起こしたり、顕示心を表さないように心がけました。
孫ができてから、家庭の負担がさらに増えました。その頃は毎日、2世帯分の食事を作り、家事をこなし、子供(訳注:孫)を育て、法を学び煉功し、まるで休む暇がありませんでした。孫が1歳を過ぎた頃からは、孫を連れて資料配布に出かけるようになりました。最初は、片手で子供を抱きながら、もう片方の手でドアに資料を貼っていました。子供が歩き始めるようになると、2階の階段の入り口に置いて、私が上の階に行って資料を配布し、その後で降りてくるという方法をとりました。時々、子供が怖がって「おばあちゃん」と泣き叫ぶので、仕方なく抱きかかえて再び上の階へ上がって配布することもありました。資料配布を終えるたびに汗だくになり、時には孫が私の顔を拭いてくれることもありました。孫はとても慈悲深い心を持っていると感じました。私が孫と一緒に出かけて資料を配布する時、私たちは誰にも資料配布のことを話しませんでした。その頃、私は病気の夫の面倒も見ていましたし、義両親も高齢だったので、頻繁に見舞いに行っていました。お正月や誕生日などの家族の集まりは、私が仕切り、お金も出し、骨身を惜しまず、20年以上ずっとそうしてきました。3人の義妹と1人の義弟は皆、真相を理解し、大法の素晴らしさを受け入れました。
私はたくさんの真相シールを貼りました。武漢肺炎(訳注:新型コロナウイルス)の流行が始まった時、資料を作っている同修と一緒に「旧勢力から人を守るには、大規模に真相シールを貼って、人々に家から出てきてもらい、玄関や階段で資料を見てもらい、コロナウイルスから身を守る方法を見てもらうべきだ」と悟りました。私たちは小冊子の作成をやめ、毎日大量の「コロナウイルスから身を守る」という内容のシールを制作しました。明慧ネットの同修が内容を絶えず更新し、中には三退用の電話番号が追加されたものもあり、私たちはとても良いアイデアだと思いました。縁のある人は直接電話をかけて三退できるからです。私たちは光沢のある紙を使い、明慧ネットの同修が編集した様々なサイズのシールをダウンロードしました。A4サイズの一枚物、横向き、縦向き、二つ1組、四つ1組、六つ1組、八つ1組のシールなど、種類やサイズ、内容が様々で、建物の廊下や壁に合わせて、最も効果的に貼れるようにサイズを調整しました。そのようにして、多くの人々に真相を見てもらえるようにしました。
その頃、私は毎日外に出てシールを貼っていました。午前も午後も貼りに出かけ、平均すると1日に200枚から300枚貼ることができました。通りのそばや集合住宅、ドアさえあればどこへでも入って行って貼りました。高層マンションでは、玄関からエレベーターホールにかけてたくさん貼りました。人が必ず通る場所なので、通路の壁など、エレベーターを待つ間にも目にすることができるからでした。エレベーターがない低い建物では、玄関から3階まで、各階の壁に大小様々なシールを何枚も貼りました。1階を見逃しても2階、2階を見逃しても3階と、必ずどこかのシールが目に入るようにしました。このような活動を、街が封鎖されるまで続けました。このような大規模な活動がどれほどの効果をもたらすのか、私には分かりませんでしたが、師父は必ず縁のある人にシールを見てもらえるようにしてくださると信じていました。あの日々を思い出すたびに、心が躍ります。まるで旧勢力から人を守るための戦いのようで、あの時の私は本当に精進していたと思います。恐怖心やマイナス思考は一切なく、ただひたすらに、もっと貼る、もっと行動する、もっと多くの人を救う、という一心でした。
現在、面と向かって人に真相を伝えていると、心の容量がどんどん大きくなっていると感じます。師父は弟子たちに、もっと多くの人を救うようにと教えられましたので、私は師父のお言葉を聞き、三つのことに精進して、多くの人を救おうと思います。振り返ってみると、これまで自分が歩んできた道は、すべて師父が導いてくださったものだと深く感じています。私はただ、師父のお使いとして人々の前に立ち、口を開いて伝えるだけでした。師父と大法がなければ、こんなにも偉大な人を救う仕事は到底できなかったでしょう。精進に精進を重ね、師父の慈悲なる済度を無駄にせず、この歴史的な瞬間において、自分の使命を果たし、師父が法を正すお手伝いをし、多くの人を救い、円満成就して師父に従って家に戻りたいと願っています。