中国法会|山間部に左遷されても、依然として法を実証する(一)
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文/中国の大法弟子

明慧日本2024年12月16日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は、1999年以前に法輪大法を学び始めた大法弟子です。この25年間、風雨を伴う正法修煉の中で、転んだこともあれば、経験と教訓も得ました。その中で感じたことや悟ったことは数多くあります。今回、第21回明慧ネット中国法会の機会に、迫害初期に職場で法を実証し、迫害に反対したいくつかの経験を記してみたいと思います。

 一、揺ぎ無く大法を修めたことを理由に、山間部に左遷される

 1999年に迫害が始まった後、私は修煉を続けたことを理由に不当に拘束され、しばらく拘禁されました。その後、市内の重点校から20キロ以上離れた山間部の学校に左遷されました。聞くところによると、教育局の幹部会議で「彼女(私のこと)が修煉を続けるなら、家に帰れなくして、それでも修煉できるのかを見てみよう」と決定されたそうです。

 私はまだ小学生の子供を残し、自転車に荷物を積み、1人で道を尋ねながら学校に向かいました。道中『洪吟』の「その心志を苦しめる」を何度も暗唱しながら進みました。地元の教育委員会に到着して手続きを行った際、どのように学校へ行けばいいのかを委員会の幹部に尋ねていると、1人の男性が部屋に入ってきました。幹部は「ちょうどよかった。この方があなたの学校の主任です。彼が用事を済ませたら、一緒に行けばいいですよ」と言いました。私は胸が熱くなり「師父は、弟子が道を知らないことをご存知で、特別に迎えの人を手配してくださったのですね。ありがとうございます!」と感謝の気持ちでいっぱいになりました。師父の加持の下、私は、これまでこんなに遠くまで自転車で行った経験がなかったにもかかわらず、あまり疲れを感じることなく学校に到着しました。

 簡素な学校や見知らぬ顔ぶれを目の当たりにし、私は思わず悲しい気持ちになりました。しかしすぐに自分を戒め「ダメだ。感情を制御しなければならない。大法修煉者としての姿勢で世間の人々に接しなければならない」と心に決めました。

 私が「処分」を受けてここに左遷されたことをこの学校の教師や生徒たちは私が来る前から知っていました。授業が終わると、生徒たちは私を一目見ようと職員室の窓に群がっていました。私は他の教師たちに自ら挨拶をしましたが、彼らはぎこちない態度で応じるだけでした。当時、テレビでは法輪功に対する誹謗中傷が繰り返し放送されており、人々は深く毒されていました。後に彼らが私に語ったところによると、当初彼らは私のことを非常に理不尽で頑固な人物だと思っていたそうです。そのため、彼らの視線は警戒と差別に満ちていました。このような環境に直面し、私は「自分が正しく行動することで、この状況を変え、人々の大法に対する誤解を解かなければならない」と思いました。

 二、善意と愛を持って教師と生徒に接する

 事実は雄弁に勝るものです。私は自分の言動を通して大法の素晴らしさを実証し、邪党の嘘を打ち破りたいと考えました。

 1. 村人が言った「あなたは、私たちの村に来た先生の中で、一番素晴らしい先生です」

 一般の人であれば、打撃を受けると立ち直れなくなったり、消極的になったり、時には報復を考えるかもしれません。しかし私は大法修煉者として、良い心境で仕事に取り組むべきだと思いました。その地域の教師のレベルは低く、教育の成果が大きく遅れているのは周知の事実でした。私は現在教えるべき知識だけでなく、これまで教えられていなかった多くの科目も補習しなければなりませんでした。授業では、親しみやすい態度、簡潔で正確な教え方、そしてミスのない説明がすぐに生徒たちに好評を得ました。その結果、多くの生徒が短期間で大きく成績を伸ばしました。保護者たちはその変化を目の当たりにし、生徒たちは心から喜んでいました。

 当時は通勤バスもなく、毎晩家に帰ることができませんでした。そのため、放課後の時間を利用して2人の生徒を個別に指導しました。その結果、彼らはそれぞれ県のコンテストで1位と3位を獲得しました。この成果は彼らとその保護者を大いに喜ばせ、感謝の言葉が尽きませんでした。この出来事は地域で大きな話題を呼びました。なぜなら、それ以前はこの学校から県のコンテストに参加する機会すらなく、町の予選で落選するのが常だったからです。ましてや受賞するなど夢にも思われていませんでした。

 その後、私は卒業生の授業と担任を任されるようになり、この学校は卒業試験で何年も続いていた劣勢を覆し、複数の学校を追い抜く成果を上げました。町の教師や校長、教育委員会の幹部たちも私に対する見方を一変させました。このことで大法や大法弟子に対する人々のネガティブな印象を払拭し、真実を伝えるための良い条件を築くことができました。

 私は大法で悟った法理を使って生徒を教育し「人が良いことをし、苦をなめれば白い物質、すなわち徳が生まれる。徳は人に福をもたらす。一方、悪いことをすると黒い物質、すなわち業力が生まれ、それが人に苦しみや病気、災難を引き起こす。だから、良い未来を持つためには、誠実で善良になり、良い人になるべきだ」と教えました。また、近隣の村で冗談がきっかけで喧嘩が起こり、結果として1人が命を失い、2人が刑務所に入ったという事件を例に挙げ、寛容と忍耐の重要性を説き、人としてどう生きるべきかを教えました。冬になると、遠くから通う生徒たちは昼休みに家に帰らず、カップ麺をそのまま食べていました。そんな時、私はお湯を注いであげたり、麺を煮てあげたりしていました。

 ある日、学校の教務主任が私にこう言いました。「人々の目は本当に鋭いね。村人たちは雑談するときによくあなたのことを話題にしているよ。『授業が上手で、人柄も良い先生だ。もし法輪功をやっていなければ、どうしてこんな遠くの村に送られることがあっただろうか?』ってね。村人たちはみんなあなたを褒めて『この村に来た先生の中で、一番素晴らしいの先生だ』と言っているよ」その頃、私はすでに名誉や利益への執着が薄れていたので、村人たちの賞賛で浮かれることはありませんでした。ただ、私の実際の行動を通して、中共が広めた大法に対する嘘や誹謗中傷を打ち破ることができたことに心から喜びを感じました。村人たちが大法弟子は良い人であり、大法が冤罪を着せられていることを理解してくれるのは、私にとって何よりも大きな励みでした。

 2. 無償の炊事係になる

 私たちの学校は複数の村が合わさった小学校で、教師たちもそれぞれ別の村から通っていました。ほかの村から来る教師たちは、デコボコした黄土の道を通らなければならず、雨や雪の日はさらに泥だらけで大変でした。そのため、昼休みに家に帰らない教師もいました。私は普段どおり授業を行う傍ら、昼になると無償の炊事係となりました。教師のほとんどが男性で料理ができず、食材も多くは私が家から持ってきたものでした。私は、師父が説かれた小坊主の話を思い出し、不満を抱くことなく、いつもにこにこしながら料理を作り、みんなに声をかけて食事を振る舞いました。雨の日や雪の日には、家に帰ろうとする他の教師を引き留めることもありました。

 私のこの善行は校長やすべての教師たちを感動させました。彼らは当初、私を監視する役割を担っていましたが、今では私の親しい友人となりました。私は職員室で公然と大法の真相や中共による迫害について話すことができるようになり、彼らからの質問に応じて大法の書籍の内容を読み聞かせることもありました。彼らはそれを聞いて、まるで目が覚めたように「テレビではこんなにも嘘をついていたんだ」と言いました。

 3. 正義感のある教師が机の鍵を私に渡す

 迫害の動きが激しくなると、教師たちは私に安全に気をつけるよう促してくれました。ある日、教育局が学校の危険な建物を調査しに来たとき、私は授業中でした。校長がある教師に私の宿舎の鍵を取りに行かせました。その時、教師たちは事情がわからず、私の宿舎を調べるのではないかと心配しました。なぜなら、私の宿舎には大法の書籍があり、それが見つかればまた連れ去られ、洗脳班に不当に拘束されるのではないかと恐れたからです。その心配のせいで、その日の授業は集中できなかったと言います。教育局の幹部が去った後、ようやく教師たちは安心しました。

 その日の昼、1人の教師が私に鍵を渡しながら言いました。「これは私の机の鍵です。これから大法の書籍を読んだら、この引き出しに入れておいてください。誰も私の机を調べることはできませんから!」彼は以前から私の話を聞き、大法の真相を理解するにつれ、正義感が強くなっていました。彼のその正義感が、私にとってさらに努力を続ける大きな励みとなりました。

 私は心から実感しました。善意と愛をもって周囲の人々と接することで、彼らを本当に感動させ、大法により救われるようにできるということです。

 (続く)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/7/484402.html
 
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